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第21章⑧

 黒木は金本が生命にかかわる怪我を負ったことを、まだ知らない。  銃弾の豪雨を辛くも逃れた後、黒木の目に映ったのは横にすべりながら飛び、戦場から離れつつある『隼』の後ろ姿だけだった。  --頼むから。朝鮮まで逃げのびてくれ…!  もはや、祈る以外になかった。そして戦況は、いよいよ絶望的なありさまになっていた。  黒木の下方で味方のキ100が、一機、また一機と立て続けに撃ち落とされる。  敵の四機編隊に追われながら、黒木は必死で打開策を探した。  回避に全力を注ぎ、P51たちが帰路の燃料を懸念して、戦闘を中止し引き上げるのを待つか? ーー否。悠長に構えている間に、ことごとく撃墜されて、全滅しかねない。  黒木は背後を振り向く。骸骨を描いたP51は粘着質な猟犬のように、ついてきている。黒木のキ100を、最上級の獲物とみなしているようだ…。  その瞬間、ひらめいた。 「ーーto be, or not to be(生か、死か)てか」   心臓の鼓動が早まる。それが緊張によるものか、興奮によるものか黒木自身にも分からない。ただ、無意識のうちに不穏な響きの(わら)い声が口からこぼれていた。 「そんなにお望みなら、相手してやるよ。陰険ドクロ野郎が」  その直後、「トチ狂ったトニー(マッドネス・トニー)」が操縦する戦闘機の動きに変化が生じた。スピードを上げた次の瞬間、反転したかと思うと、海面めがけて急降下していく。グラハムは追った。耳元で風が唸り、速度計がどんどん右へ傾いていく。もし降下していくP51たちの姿を、少し遠くから見る者がいたなら、魚群を狙って海中へ飛び込む海鳥たちに似ていると思っただろう。 〈……少佐!!〉  無線電話に、部下の叫びが満ちる。グラハムは、両手で操縦桿を引いた。本当は、ほんの少し遅く引きたかった。追いかけている敵のように。だが、部下たちの技量を考慮すれば、それはできなかった。これ以上、機首起こしが遅れれば、一、二機は間に合わずに確実に海面に激突する。  そして、この瞬間、追う者と追われる者が逆転した。  上昇に転じたグラハムは、海面を見やる。反射光にまぎれて、「トチ狂ったトニー(マッドネス・トニー)」の機体が迫り上がってくる。 〈下から来るぞ!!〉    グラハムは警告し、ただちに回避行動をとった。日本の新型機の上昇性能がどれほどのものでも、P51が積むマリーン・エンジンの出力であれば、逃げ切れると思った。  だが、上ろうとするグラハムたちの右上方から、一機のキ100が近づいてきた。  それは蓮田の機体だった。「らいちょう隊」の少尉は、黒木が意図するところを、いち早く察知していた。 〈親玉の首を取るの、助太刀しますよ!!〉  自身も背後から狙われているというのに、蓮田は意に介さなかった。むしろ、ここぞとばかりにグラハムたちとの距離をつめる。近づけば近づくほど、後ろの敵は同士討ちを恐れて発砲をためらうであろう。そんな冷徹な計算が働いていた。  蓮田の攻撃を避けるために、グラハムはやむなく進路を変える。  そこに黒木のキ100が迫ってきた。

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