430 / 474

第21章⑩

 グラハムはどこまでも手抜かりがなかった。あるいは、トドメの一撃だけは、自分自身の手で下したかったのかもしれない。  部下二人が「トチ狂ったトニー(マッドネス・トニー)」への攻撃を行った瞬間、グラハムは操縦桿を引き、自機の機首を上げた。速度が落ち、かわりに高度が上がる。それから方向舵を操り、最適なタイミングで再び機首を下げた。  尾翼に描かれた花と月のマークが、グラハムの目に飛び込んでくる。黒木のキ100の背後に、グラハムのP51が迫る。互いの距離が、五十メートルを切った。  決着の時だった。  その瞬間、一機の『(はやぶさ)』が天空を切り裂くように落ちてきた。  空中分解してもおかしくない速度で、あたかも獲物に狙いを定め、襲いかかる本物の猛禽のごとき飛び方だ。  それは技量も度胸も備え、覚悟を固めた搭乗員にしかできない、生涯一度きりの(わざ)だった。  巨大な空母でもなく、超空の要塞(スーパーフォレスト)B29でもなく、高速で飛ぶグラハムのP51に、金本の操縦する『隼』は一分の狂いもなく体当たりを決めた。  衝突の瞬間、機体を構成するジュラルミンとガラスが千切れ、砕け散り、太陽の光を反射して、無数の水晶片のように輝いた。遅れて、霧散したガソリンに炎がついて、いくつもの火球を生じさせる。炎の熱は、ガソリンに混じった二人の人間の血を、瞬く間に蒸発させた。  押しつぶされたP51の操縦席で、グラハムはかろうじて生きていた。ただし背骨は砕け、内臓は破裂し、ねじ曲がった機体の一部が肺と心臓をまとめて貫いている。  栄光の勝利から、敗北の奈落へ。変化があまりに劇的すぎて、グラハムは怒りや悔しさを覚えるでもなく、ただただ驚いていた。 --無線電話は………無理か。  おそらく、損傷して使えない。それでもグラハムは指揮官として義務を果たすべく、苦痛をこらえて口を動かした。 〈--全機へ。直ちに戦闘を中止せよ。B29に合流し、硫黄島へ帰還だ。諸君の…ーー〉  無事を祈る、と言い切ることはできなかった。  自分が死につつあることを、グラハムは冷静に受け入れた。せめて最後に、本国に残してきた妻子のことを考えようとした。だが、だめだった。妻の顔も、子どもの姿も、(きり)の向こうにあるかのように、ぼやけて思い出せなかった。 --……もっと、戦いたかった。残念だ。  それが本心だった。「トチ狂ったトニー(マッドネス・トニー)」と、日本のほかのパイロットたちと、それから麦わら色の髪を持つ大尉の操縦する黒衣の女王と--。  混濁する意識の底で、グラハムは夕暮れを目にした。  朱色から紫色に変わる夕焼け空に、夜間爆撃戦闘機P61が飛んでいる。  その漆黒の機体を、P51に乗るグラハムは追いかけた。  追いつくより先に、アメリカ陸軍屈指の戦闘機乗りヴィンセント・E・グラハム少佐は息絶えていた。

ともだちにシェアしよう!