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第21章⑪

 片腕を失い、グラハムと同じくらい致命傷を負った金本は、自分が葬った敵手よりほんの少しだけ長く生きた。  黒木に行けと命じられながら、金本はついに、この空にとどまった。  右腕を失った身で逃亡者となっても、まともな治療など望めるはずもなく、遠からず命を落とす。そうなるくらいなら、黒木たちと運命を共にする方がずっとよかった。  そして骸骨が描かれたあのP51に、黒木が追いつめられる事態を目にし、金本は心を決めた。激痛に耐え、残された最後の力を振りしぼって、特攻機そのものを武器にして、P51を道連れにした。  黒木を救えたか、金本には分からなかった。無事でいてくれと、願うしかない。操縦席は炎に炙られ、煙が充満し、もう何も見えなかった。  そのまま暗闇に落ちていくかと思った時、奇妙なものを金本は見た。   …故郷の実家の庭に、金本は立っていた。モクレンの花が咲いている。風が吹いたかと思ったら花が散り、季節が一気に何ヶ月も進む。  庭にキムチを漬ける甕がいくつも現れる。そのそばで、母が親戚の女たちとおしゃべりをしながら白菜を切って塩漬けにしていく。家の方を振り向くと、父から古典の手ほどきを受ける長兄の姿が見えた。  また風が吹く。匂いが変わり、風景が変わる。  そこは大阪の叔父の工場だった。元気だった頃の哲基(チョルギ)光洙(グァンス)が、ガラス窓の向こうに現れる。 「ヒョン(兄さん)…」  手を伸ばしかけて、金本は思いとどまった。もう、この頃には理解していた。  今、見ているのは過去の記憶が生み出した幻。走馬灯だ、と。  機械油の匂いが濃くなり、ガソリンの臭いが混じる。   満洲に吹き荒れる猛吹雪。南方の夕暮れ時のスコール。  それが過ぎ去ると、泥濘だった地面が硬いものに変わった。  調布飛行場の滑走路に、銀翼を煌めかせ、飛燕が降下してくる。  死んだはずの工藤や米田が、今村たちと談笑しながら歩いてくる。中山と千葉が、工具箱を手に忙しい様子で駐機場へ向かう。  金本は滑走路を見わたし、そこに、会いたかった男を見つけた。  黒木の方も金本に気づいて手を上げる。それから、かたわらに生えた草木を指差した。二人で協力して植えたムクゲは、いくつもの白い花をつけていた。  金本が近づいていくと、黒木は失くなったはずの金本の右手をつかんだ。  そこで再び景色が変わった。  金本の知らない場所だった。朝鮮の実家と似ているが、建物の造りが違う。もっと小ぶりだ。何より、庭には金本の知らない色とりどりの花が、咲き乱れていた。  そばに立つ黒木を見て、金本は少し驚く。もう軍服でも、飛行服でもない。ありきたりなズボンとシャツを身につけ、髪も伸びている。  そして変わらぬ美しい顔に柔らかな笑みを浮かべ、金本に笑いかけた。 --ああ、これは…ーー。  未来だと、金本は思った。  生きていれば、努力していれば、手に入ったであろう未来。  黒木の幻に向かって、金本はほんの少しだけ笑った。悲しいが、それでもーー。 「満足だ」  このあり得た未来を抱いて、行くべきところへ行こう。  …目を開ける。幻が消える。焼け落ちる操縦席で金本は唇だけを動かして、つぶやいた。 「--悔いは、ない。だから……どうか許してくれ、栄也」  ひしゃげ、つぶれ、燃えるジュラルミンの残骸が海面に激突する。  絶命した金本を包み込んだまま、『隼』の亡骸は海の底へと沈んでいった。

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