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第22章②
…払暁の薄暗さの中、カトウはガーランド銃を手に、這うようにして急斜面の山道を登っていた。足元の地面は白く、眼下を流れる川まで白く浮き上がって見える。というのも、ここはヨーロッパ最大の大理石の産地だからだ。有史以来、白く輝く石が絶え間なく採掘され、無数の彫像に加工されてきた。中には、今もどこかの美術館に飾られている作品もあるだろう。
一九四五年四月。カトウたちは船に乗り、再びイタリアの地を踏んだ。
ゴシック・ラインは、長靴形の半島 の脛の辺りを西から東に横切る形で、ドイツ軍が敷いた強力な防衛線の一つである。
カトウたちが今、登っている山にドイツ軍が布陣し、すでに半年以上が経過した。その間、連合国軍は何度も攻勢をかけたが、一度として成功したことはない。にらみあいが続く中、アメリカ陸軍の司令官は、ついに切り札を投入する決意をする。
昨年、フランスの森林地帯で、ドイツ軍に包囲された「テキサス大隊」を救出し、一躍、名を知られるようになった日系二世 の連隊。
第442連隊戦闘団、すなわちカトウたちの部隊であった。
「夜が明けきる前に、一フィートでも多く登るぞ」
カトウのすぐ近くで、中隊長のジョー・S・ギル大尉が言った。他の兵士が、峻険な山道を登り続け、息を切らしているというのに、平地を進むのと全く変わらぬ様子だ。
「太陽が登ったら、俺たちの姿は山の上にいるドイツ兵たちに丸見えになる。それこそ、雪原でマヌケ面を引っさげて歩くカラスみたいにな」
聞いた何人かが--特に、連隊に来てまだ日の浅い新兵が、一瞬、こわばった顔で互いを見交わす。一方カトウは、恐怖も感慨も湧いてこない。淡々とギルの指示に従って、命じられるままにドイツ兵を排除していくだけだ。
まるでその辺に転がる石ころのごとく、自分の命など、どうでもいいもののように戦う。
カトウのそんな態度が、ギルの癇 にさわることは知っている。一方で、その無頓着さを嫌々ながら高く買っていることも。銃弾と砲弾が飛び交い、一秒ごとに死を量産する戦場のただなかにあって、ギルの望む精度でドイツ兵の頭蓋を撃ち抜けるのは、中隊の中でカトウだけであった。
カトウはふと、考える。昔はこうではなかった。人並みに敵兵が怖かったし、死ぬことへの恐怖も強かった。ある意味、今より少し人間らしかった。
自分の中の何かが、「あの日」を境に決定的に壊れてしまった。そういう自覚はあった。
カトウは頭上にひかえる山の稜線を見上げた。今日の作戦には、連隊のほぼ全ての兵力が投入されると聞いている。数と勢いにまかせて、複数の山陵を同時に攻撃し、ドイツ軍の防御網に穴をあける。仮にそこまで至らずとも、猛攻を加えて損害を与えれば、ドイツ側はこの場所へ兵力を投下せざるを得なくなる。
そうなれば、他の戦線の守りが手薄になる。
今回、カトウたちの連隊を呼び寄せた司令官の狙いは、むしろそちららしい。イタリア東部の守りを薄くすることで、東海岸から連合国軍の主力を上陸させ、北部地域を制圧する。そのような目論みがあると、出発前にギルから聞かされていた。
もっとも、司令官の戦略や目論みなど、一兵卒に過ぎないカトウにとっては、割とどうでもいいことだ。どんな戦場でも、自分がやることに変わりはない。
銃弾で、手榴弾で、砲弾で、できるだけ多くのドイツ兵を殺傷すること。
ただ……司令官がどんな名将であったとしても、今日の味方の死傷者は、相当な数にのぼると思われる。
カトウは前方と後方で、山道を黙々と登る日系二世兵を一瞥する。今日、日が落ちるまでに何人かは確実に死体袋行きだ。
ひょっとすると、その中にカトウ自身も含まれるかもしれなかった。
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