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第22章⑩

 そこはまるで竜巻が通り過ぎたか、あるいはヤクザが集団で家探しした後のような有り様だった。  窓ガラスは一枚残らず割られ、飛散防止の紙テープを巻き込んでカーテンの外に散乱していた。ガラスを砕いた椅子も、壁に何度も叩きつけられて破壊されている。その近くには、白い花が生けてあった花瓶の破片。ぶちまけられた水がまるで血のように飛び散って、花は無残に踏みにじられていた。  寝具すら、暴挙を免れなかった。謹慎対象の大尉から軍刀を取り上げなかったせいで、備品の布団も枕もめちゃくちゃに切り裂かれることになった。はみ出した綿とソバがらは、干からびた魚の内臓のように、空気に晒されていた。  廃墟同然の部屋の中心で、黒木は抜き身の軍刀を握ったままうずくまっていた。破壊衝動と虚脱感の繰り返しの果てに、目につくものは全て壊してしまった。もう、動く気力も尽きた。それでも、目だけは爛々と底光りし、暗闇を見すえていた。  そうやって、どれだけ時間が経ったか。鍵が回る音を、黒木は聞いた。 「--…大尉どの。整備班の中山です。入室の許可を願います」  黒木は返事をしなかった。  三十秒ほどして、扉がゆっくり開いた。  廊下の光が差し込み、そこの床だけ四角く切り取ったように浮かび上がる。  扉のそばに中山と、そして千葉の顔がのぞく。部屋を一瞥(いちべつ)し、何か言いかける千葉を制して、中山が室内に足を踏み入れた。  黒木が暴れている間、誰一人として、部屋へ近づく者はいなかった。誰だって、巻き添えをくって怪我をしたり、命を失ったりしたくはない。ようやく静けさが戻ったあと、中山は千葉と共に「黒木の様子を見てくる」名目で、上層部から入室を許可された。  部屋に灯りはついておらず--もとより、電球も例外なく割られている--中山の目が暗闇に慣れるのに、少し時間が必要だった。  室内の中心に黒木がうずくまっているのを認め、さらに剥き出しの軍刀の存在に気づいて、中山はぎょっとなった。 「近づくんじゃねぇ。斬るぞ」  かろうじて聞き取れるほどのささやき声で、黒木が警告した。  しかし、黒木の予想に反し、中山は背中を向けて逃げ出したりはしなかった。 「斬りたいというのなら、どうぞご随意に」  小柄で、吹くだけでどこかに飛んでいってしまいそうなほど痩せた青年に恐怖はなかった。 「それで死んだら。あなたより先に、あの人のところへ逝くだけです」  闇の中で、黒木の目がスッと細くなる。直後、嘲りと怒りの混じった笑い声が弾けた。 「油断ならねえ、泥棒猫が」 「……」 「『我に投じるに木瓜(もっか)を以てす』--」  黒木は低く吟じた。 「『これに報ずるに瓊琚(けいきょ)を以てす』--『詩経』(※中国最古の詩篇)だったか。古代の中国では、好きな男に好意を伝えるために、女が木瓜や桃李の実を投げつけていたらしいな。貴様が金本にやった『お守り』に、木瓜の花が刻んであったからすぐにピンときた。想いをそれとなく伝えるためだったんだろう? ご丁寧に赤い糸まで結えつけて」  中山は反論しなかった。  赤い糸は台湾では良縁の象徴で、伴侶となる相手につながっているとされている。 「あの朴念仁(ぼくねんじん)相手に、やり方が迂遠すぎたな」  黒木は冷酷に評した。 「それとも、てめえが玉砕して傷つくのが、嫌だったか? ふん。もう、どうでもいいがな。どのみち、あいつは…--」  最後まで黒木は言い切れず、言葉を失う。  悲嘆する以上に、激怒していた。手の届く範囲に金本がいたら、多分、軍刀で斬り殺していただろう。  あれほど逃げろと、言ったのに。黒木の願いに背いて、戦場にとどまった。  そして金本は結局、自分の命と引き換えに、黒木の命を救った。  それが黒木のもっとも望まぬ結末だったと、分からせてやる機会は、もはや永久に来ない。  黒木の中で、また破壊衝動が高まってきた。  血走った目で、黒木は中山をねめつけた。斬りかかりたい衝動を、かろうじて抑えたのは理性ではない。人様(ひとさま)の恋人に横恋慕する野郎の望みなど、叶えてやるものか、という幼稚な嫉妬心のおかげだった。  黒木の葛藤など、中山は気にもとめなかった。  一刀両断にしたければ、どうぞ。なます切りがお好みなら、望むままに。  しかし託された仕事だけは、やり遂げるつもりだった。  中山は黒木の正面に歩みを進めると、手にしたものを突き出した。 「あの人からです」  中山はそっけなく告げた。 「離陸する前に、整備兵を通じて黒木大尉どのに渡すよう、頼んだそうです。どうか、読んであげてください。そして、覚えておいてください。あの人が、最後に言葉を遺したのはあなたであって、俺なんて眼中にもなかったってことを」

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