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第22章⑫
……カトウが目を覚ましたのと同じ頃、九州南部のある場所で一人の女が起き出した。
つい先頃、井戸に転落して溺死した田宮正一 の妻、田宮千代 である。千代の夫はエンペラー 誘拐を計画したが、計画をGHQ に密告していた妻を亡き者にしようとした挙句、失敗し、自滅して井戸へ消えた。そして千代は、彼女を助けた東智 という青年に連れ回され、ついに昨日、東が目指していた「目的地」へとたどり着いた。
そこは洞窟のような場所だった。「ような」と表現するのは、今いる場所へ着く手前で、千代は東に目隠しをされたからだ。しかし、見えずとも、外より数度低い涼しい空気や、反響する音から、屋外でないことは見当がつく。
さらに、東に手を引かれてやって来たその場所に、先客がいることも。
「おかえりなさい。ごくろうさまです……あの、その女性は?」
田宮の屋敷を抜け出し、ここに着くまで、千代は人の声を聞いていない。同行者の東は、口がきけない。久方ぶりに耳にする人の声は、思いがけず千代をほっとさせた。
しかし、それも洞窟内に設けられた小部屋のような一角に隔離され、目隠しだけでなく、手も縛られ、東が他の人間たちと、何やら相談を始めるまでだった。
「ーー厄介者を招き入れましたね」
その声は、到着直後に聞いたのと、また別の男のものだった。口調こそ丁寧だが、非難の色を隠そうともしない。
「女の人を助ける義侠心があるのは、けっこうですが。もし途中で捕まっていたら、すべて台無しになっていたんですよ」
話し、興奮するにつれ、男のアクセントが乱れる。流暢に話しているが、もしかすると外国人かもしれないと、千代は考えた。
気配を消して、千代は耳をそばだてる。この数ヶ月、密偵まがいの行為を重ねたおかげで、聞き耳を立てるコツはつかんでいる。ここから逃げ出した後、何か役に立つことを聞けるかもしれないと、集中して耳を澄ました。
「……それで。彼女をどうします? いっそのこと…」
男はそこで。言葉をにごす。ヒュィッと、特徴のある呼吸音が上がる。喋れない東が、驚いたり焦ったりする時に発する音だ。「いっそのこと」のあとに、男が何を言おうとしたのか、理解したのだ。
盗み聞きする千代も、顔から血の気がひいた。
--いっそのこと、殺してしまおうーー。
恐怖が湧き、パニックになりかける。その手前で、最初にこの場所に着いた時に聞いた男の声がした。
「…彼女のことは、終わるまであそこに閉じ込めておけばいい」
声の主は淡々として、落ち着いている。反論がないところを見ると、彼がこの場において、もっとも主導権を握っているようだ。
「そう長いことでもないし、食べ物も一人分くらいなら、なんとかなる。ただ、逃げ出さないように見張っておく必要はあるが……それは連れてきた人間の責任ということで」
それで話はまとまったようだ。千代は、心から安堵の息をついた。
それからしばらくして、扉が開いて誰かが入ってきた。東かと千代は思ったが、声を聞いて違うと悟る。
「怖がらないでください。少し、話がしたいだけですから」
先ほど、千代の命を間接的に救ってくれた男だ。男は千代に近づくと、その耳元で彼女にだけ聞こえるほどのささやき声で言った。
「今から、目隠しを外します。でも、そのことは口にしないで」
千代が返事をするより先に、男は手を伸ばして、頭の後ろのいましめを解いた。
部屋の中は、電球一つついていない。扉の隙間から、わずかに光が差しているだけだ。それでも、暗闇に慣れた千代の目は、すぐに男の輪郭と両の目を見出すことができた。
彼は水辺においしげるガマのように、ヒョロリと痩せていた。年ははっきりしないが、声や口調から察するに、そこまで年かさというわけでもなさそうだ。
男は千代が落ち着いているのを確かめると、
「先ほどの我々の話。聞いていましたね」
と切り出した。
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