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第22章⑬
「申し訳ありませんが、明日の夜までこちらで我慢してください。食事も保証します。もし不安なら、今のうちに俺が話し相手になりますので」
「東さんは?」千代はつとめて平静さを保って尋ねる。
「さっき、声をかけましたが、あなたに会いたくないそうです。--少なくとも今は」
男は背後の扉にチラリと目を走らせる。
「彼や他の人間が、外で見張っています。だから、決して逃げようなどと、思わないでください。すぐに捕まえますし、むやみに走り回ると、危ない場所もありますから」
「…わかりました」
「それから、もう一つ。日が落ちた後は、おとなしくしていてください。声を上げてもだめです。夜にもう一人、ここに人が来る予定ですが、その人があなたの存在を知ったら、何をするか分かりません。彼がもし、この状況を気に入らなくて、あなたをどうにかしようとしても、ここに止められる人間は誰もいません」
男の口調は真剣だった。
千代は自分と目の前の男に、空気のように気配を消すと誓った。その答えに、男はほっとしたように息をついた。
「あなたには、本当に迷惑をおかけしました。少なくとも明後日ごろには、警官かアメリカ兵が必ず、ここを突き止めてやってきます。彼らに救援してもらってください。俺たちが立ち去った後も、三日は保つように食糧と水を置いていきますから」
「…ええ、そうさせてもらいます」
千代はそう言ってから、意を決して切り出した。
「どうしても、手を引く気はないんですか?」
目の前の男は今のところ、この場所で一番、発言権を持っている。それに、冷静で話も通じる。説得できるかもしれないと、千代は密かに期待を抱いた。
「東さんから、お聞きになったでしょう。エンペラー 誘拐なんて馬鹿げた計画を立てた田宮正一は死んだんです。きっと…そうです、天罰が下ったんですよ」
千代は乾いた笑みを浮かべる。「天罰」の二文字は、ほんのひと時、千代が夫を間接的に殺してしまった罪科から、目を逸らせる効果があった。
「田宮は死んだ。『尽忠報国隊』に関わった人間たちのところにも、今まさに官憲の手が伸びているはずです。万に一つ、あなたたちの誘拐計画がうまくいったとしても、すぐに捕まるのは目に見えています。もう、やめてしまいましょうよ、こんなバカげたことは」
千代はそこで、男の反応をうかがった。怒るか、逆上するか、それとも…?
返ってきたのは、彼女の予想もしていない言葉だった。
「…申し訳ない。俺たちは、あなたのご主人を騙したんです」
「え…?」
「このあたり一帯の山は、田宮正一氏の所有物だった。この場所の正確な位置を突き止め、最大限、活用するには、田宮氏の協力と支援が必要不可欠でした。だから…エンペラー の誘拐計画をでっち上げて、それをだしにしてご主人たちを利用した」
男の語る話は、千代を混乱させた。
エンペラー 誘拐なんて、初めからする気はなかった?
でも、この場所は?
この場所に彼らがいることこそ、計画が実行されようとしている証拠ではないのか?
「じゃ、じゃあ…天皇誘拐が目的でないのなら。あなたたちは何をするつもりなの?」
「それはいずれ、明らかになります」
男のはぐらかす態度は、千代を苛立たせた。
「…東さんも、最初からあなたたちとグルだったの?」
「はい。俺たちの仲間です。彼がたまたま田宮氏の同郷者で、怪しまれずに近づけると考え、『尽忠報国隊』に潜り込む人間として選ばれたんです」
「あなたたちが、東さんを巻き込んだの? 何をしようとしているのか知らないけれど、ろくでもないことをするために、あの人を巻き込んだの?」
「…俺たちの計画には、ある程度の人数が必要だった。彼に話を持っていったら、協力の意思を示したと、聞いています」
「ひどいわ!」
千代は声を荒げた。こんな状況にも関わらず怒りがわいた。
「あなたは、あの人が戦争中にどんな目に遭ったか、ご存じ? 傷ついて、それでもお国のために、生きて帰れない特攻機に乗せられるのを待っていた。私は、東さんに会った時、気の毒に思った。こんなにも若いのに、傷だらけなのに、人生の楽しさも喜びも、ろくに知らずに死にゆくあの人が、哀れでならなかった! 戦争が終わって、田宮の屋敷で再会した時にはとても驚いたわ。でも同時に、生きのびて、本当によかったと思った。なのに、あなたたちは、そんな人を惑 わして、おかしな道に引きずり込んだ。田宮と同じよ。これ以上、あの人をいいように利用しないで!!」
千代の言葉の語尾に、バンという音が重なった。扉が開き、そこに顔を赤くした東が入ってくる。千代の目隠しが外れていることに気づいたが、それすら今は瑣末なことのようだ。
東は立ちすくむ千代の手首を乱暴につかむと、その手のひらを引っかくように字を記した。指の動きは、いつもの倍ほども速かったが、千代には、はっきり読み取れた。
--オ・レ・ガ・エ・ラ・ン・ダ。ク・チ・ダ・シ・ス・ル・ナ--
呆然とする千代を突き放す。そのまま、東は大またで去り、扉を勢いよく閉めた。
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