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第22章⑮

「--ある筋によれば、今回の巡幸は、六月に東北地方を襲った水害の影響で、延期も検討されたという。しかし、陛下は五日、予定通り東京を御出発なさり、同日、福島県を、翌六日には宮城県の各所を視察なされた。行く先々で、民衆の盛大な歓迎を受け……うーん。あかんわ。筆のすべりがようない」  「やまと新聞」報道部の佐野敬(さのけい)記者は、原稿用紙から顔をあげ、気に入らぬ文面を目でひと撫ですると、それを四つに折りたたんで鞄に放り込んだ。余白のある紙を捨てる習慣はない。後で、メモか下書きにでも使うつもりだ。  佐野は派遣記者として、他の三人の同僚と共に東北地方へ出張していた。目的は言うまでもない。エンペラー(天皇)の東北巡幸の取材するためだ。  佐野は今、一人で盛岡市内の喫茶店にいた。店の窓から道路を挟んだ向こう側には、三角屋根を戴く岩手県庁舎が見える。盛岡は終戦末期に二度、空襲を受けたものの、他の都市と比べれば被害は小さく、県庁舎をはじめとする多くの建物が無事な姿のまま、終戦を迎えた。  同僚たちが宮城で巡幸の取材を続ける中、佐野は一足先に岩手へ入った。今日の午後、盛岡へ到着する予定のエンペラー(天皇)一行を待ちかまえるためで、空いた時間で、本社へ送る記事をしたためていた。 --それにしても、えらいぎょうさんな人や。  県庁前にはすでに、日の丸を手にしてエンペラー(天皇)の到着を今か今かと待ち望む人々で、あふれかえっていた。どの顔にも、「陛下のご尊顔を一目見られれば」という期待がありありと現れている。現人神(あらひとがみ)であることをやめ、人間宣言をしたにも関わらず、人々の間から根深い畏敬の念がにわかに消え去ることはないようだった。  佐野は新しい原稿用紙を前に、文案を練った。東京を出発して早三日。福島、宮城、そして今日は岩手と、順調なペースで巡幸は進んでいる。この調子で行けば、おそらく水害の被害が最も深刻な秋田にも、御御足(おみあし)を運ばれるだろう。  再び佐野が万年筆を動かそうとした時、傍らから「クルクルッ…」と音がした。 「おうおう、お腹すいたか。もう少ししたら、エサやるさかい、ちょっと辛抱してや」  そう呟き、空いた手で手提げかごを撫でる。中にいるのは、宮城支社から借りてきた伝書鳩だ。今は市内なので通信状況にそれほど心配はいらないが、もし巡幸先が郊外になった場合には、記事を送る心強い手段となる。 「--まあ今夜の陛下の宿泊先は、K農場やから。そこやったら、まだあんさんの出番はないさかい、ゆっくりしとき」  盛岡市近郊にあるK農場は、岩手山の南麓に広がる日本最大級の酪農場である。佐野が得た情報によると、農場内にある豪壮な邸宅に、エンペラーは三日ほど滞在するとのことだ。  そのK農場に、佐野は半年ほど前に足を運んでいる。  GHQの主導のもとではじまった農地改革政策が、地方の地主と小作農にどう受け入れられているのか、また実際の施行状況について取材するためだった。  K農場は戦前、旧M財閥が経営を行なっていた。財閥自体は敗戦直後にGHQの命令で、解体されている。そして、農場の広大な土地の一部も、満蒙開拓団の帰国者や地元の小作農に譲渡されることが決まっていた。  佐野がK農場へ到着すると、連絡を受けた広報担当者が出迎えてくれた。男は大正の頃から農場内で働き、若い頃は主に乳牛の管理をしていたという。GHQの政策には無論、従うが、それでも不満がないわけではない、と語った。 「当農場は、優秀な競走馬を育てて、何頭も送り出してきたんです。でも、今の厳しい状況下では事業の縮小は避けられません。馬の育成事業は、撤退せざるを得ないと新たに就任した社長は考えています。本当に、残念なことです……」  担当者の案内で、佐野はまだ存続している馬の厩舎を見学させてもらえることになった。その途中、馬は意外と繊細で臆病な動物なので、持参したカメラは使わないよう釘を刺される。  カメラを鞄にしまい、厩舎に足を踏み入れると、そこは馬たちの体温と汗で、外よりかなり暖かく感じられた。ちょうど掃除の時間帯らしい。隅の方で、一人の男が集めた馬糞を積み上げている。  佐野は馬たちだけでなく、黙々と仕事にはげむ男の姿に目が向いた。かなり若く、また二十代半ばほどに見える。あの年であれば、十中八九、戦地からの復員兵だろう。同行する担当者に尋ねると、やはり予想した通りだった。 「彼は福島から来ましてね。ああ見えて、戦時中は戦闘機に乗ってたそうですよ。最近、雇ったばかりですが、よく働いて礼儀正しいので、うちの社長も気に入っています」

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