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第22章⑯

 その後、担当者の案内で、佐野は譲渡予定の農地にも足を運んだ。その途中、農場の南の外れで、瓦屋根のかなり大きな日本家屋を見かける。たずねると、かつての経営者が長期滞在する目的で建てた別邸だという。経営者は家族でここに泊まり、自ら馬の調教を行うこともあったと、担当者はなつかしそうに語った。  そうやって、再び厩舎のところまで戻ってくると、先ほどの青年を見かけた。調教師らしい男を手伝って、放牧していた馬を厩舎へ戻すところだ。  その仕事が終わるのを待って、佐野は思い切ってそばに行き、話しかけた。  松岡というその青年は、嫌な顔もせず、佐野の質問に答えた。  二年前まで陸軍の飛行兵だったこと。「飛燕」という戦闘機に乗り、主に本土上空へやって来るB-29やグラマンの迎撃に当たっていたこと。復員後、家に居場所のなさを覚えて、思い切ってこの農場に来て、働き始めたこと……。  ただ、なぜこの仕事を選んだのか、と聞かれたとき、松岡は言いよどんだ。 「…なんとなく。ああ、でもこの仕事は、今の自分にとても合っています」 「ほう。どういうところが?」 「あまり、人の声を聞かずに済みます」  松岡の答えに、佐野は戸惑った。 「…失礼やけど。それは、人間があまり好きやないって意味ですか?」 「あー…いえ。そういうわけではないんです。ただ、忘れたくない人の声がありまして…」  松岡は訥々と答える。 「たくさんの人間と接していると、その声の記憶がどんどん薄れて曖昧になってくる。それが、嫌なんです。この仕事は、動物の世話が多い分、人とあまり話さなくて済みます。その点、自分に合っていると言いたかったんです」 「なるほど…その忘れたくない人って、ご家族ですか?」 「亡くなった恋人です」  その答えを聞いた佐野は、改めて、目の前の青年を見やった。  おとなしそうな風貌と裏腹に、ほんの二年ほど前に命がけで戦っていた元戦闘機乗り。  愛した相手の声を忘れたくなくて、動物の世話をする仕事についた若者。  まるで童話の世界に出てきそうな人間だと、佐野は思った。 「この農場は、いい場所です」  北に広がる山を眺め、松岡はつぶやく。 「雇ってもらったことを、ありがたく思っています。今のうちに、できる限りの恩返しをしたいものです」  …原稿用紙を前に、回想にふけっていた佐野は、そこでふと首をかしげた。  、と松岡は言った。確かに、そう言った記憶がある。  まるで遠くない将来、そうできなくなる日が来るような言い方だ。  松岡は農場をやめるつもりだったのか? しかし、そんな気配は感じられなかった…。  言いようのない疑念にとらわれようとした時、 「--佐野さま。お客さまの中に、『やまと新聞』の佐野さまはいらっしゃいますか?」  喫茶店の主人(マスター)が、客に向かって呼びかける声がした。佐野が立ち上がって、自分だと答えると、電話をあずかっていると伝えられた。  佐野は電話機へ向かう。かけてきたのは、同僚の記者の一人だった。 「先ほど、エンペラー(天皇)が花巻を御出立された。たぶん一時間ほどで、盛岡に到着する」 「分かったわ。ほな、今から県庁に向かうさかいに」  佐野は電話を切ると、店を出る準備を始めた。  原稿用紙を鞄にしまい、鳩の入った手提げカゴを手にする頃には、すでに関心は農場で会った松岡青年から、これから姿を現すエンペラー(天皇)の方へうつっていた。

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