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第22章⑰

 佐野がエンペラー(天皇)の到着を待つために、岩手県庁へ向かっていた頃。  そこから十数キロ離れたK農場では、従業員たちがエンペラー(天皇)を迎え入れるべく、最後の準備に追われていた。馬厩で働く松岡も、厩舎の中をいつも以上に丹念に掃除した。宿泊中、エンペラー(天皇)は農場内を散歩したり、あるいは牛馬が飼養されている様子を視察するかもしれないと、社長に言われていたからだ。  集めた馬の糞を、松岡は所定の場所へ運び出し、積み上げた。 「……異常なし」  松岡は馬糞の山の裏をのぞき込んだ。乾燥させた稲藁が、そこに積まれていた。稲藁の中にはすでに昨日のうちに、炭を入れた木箱を隠してある。  この二ヶ月ほど、人の目がない時に何度も、火をつけた炭がどれくらいの速さで木箱を燃やし始めるか、そして稲藁に火が回るか、観察してきた。今、ここにあるのは、着火後、六時間で藁を炎に包むよう、炭の量が調整されている。  六時間、七時間、八、九、十時間後まで。時間差で炎が上がるよう、広い農場のあちこちに、藁と炭と木箱でできた原始的な着火装置を松岡は仕掛けた。  大丈夫。雨さえ降らなければ、火が回り、必ず煙は上がる。  松岡はひと息つき、上を見上げた。  雲の少ない空を眺めているうちに、特攻隊員として飛び立った日のことを、思い出した。  …あの日、知覧から飛び立った五人の特攻兵の内、生き残ったのは松岡一人だけだった。  乱戦の中、松岡が誘導して救い出した『隼』は、結局、機体損傷による燃料もれを起こし、陸にたどり着けずに墜ちていった。松岡に、なすすべなく海へと消える機体を救う手立てはなかった。特攻機からは無線電話も外されていて、墜落地点をその場で味方に知らせることさえ、できなかった。  松岡が知覧へ戻ってから、ほどなく、直掩をつとめた黒木たちも帰還した。  けれども、離陸した時と比べ、その数は半減していた。竹内や林原といった、松岡が調布飛行場に配属されて以来の仲間たちが、この戦いで先に逝った。  そして、松岡が長く僚機をつとめた金本もーー。  その夜のうちには、戦闘の詳細が松岡の耳にも入ってきた。  金本は、敵の指揮官機に体当たりをして戦死し、それと引き換えに黒木たちを救ったと、聞かされた。  松岡は金本の死を悲しみ、気の毒に思った。  そして不覚にも、その散りざまに、心を動かされた。  次の日の早朝。松岡はもう一度、特攻隊員として出撃させられた。直掩どころか、他に仲間もいない。ただ一機での出立だ。それを命じた者たちの意図を、松岡は正確に察した。  「生き恥をさらすな」だ。  松岡は粛々と、命令に従った。胸のうちでは、復讐心が静かに燃えていた。 ーーかたきを討ちたい。  ただ悲惨に死ぬだけでは、だめだと思った。アメリカ人たちをできるだけ多く道連れにして、一矢報いて死なねばと、思った。  多分、そういう欲を出したのが、いけなかったのだろう。  出撃後、松岡の操縦する『隼』は沖縄にたどり着く前に、発動機の不調を起こした。  周囲を見渡すと、一つの島が海上に見えた。松岡は海に沈むのではなく、島への不時着を選んだ。    アメリカ兵を一人も殺せず、無駄死にすることに耐えられなかった。

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