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第23章⑥
…一九四五年七月。黒木は九州の都城から、ただ一機で出撃した。日本近海に姿を見せ始めた米軍艦船へ特攻を行うためだ。それは部下も随伴機もいない、孤独な旅路だった。
そこに至る一ヶ月あまりは、砂を噛むような日々だった。はなどり隊は解体され、今村をはじめとする搭乗員たちも各地に四散した。そして、謹慎を解かれた黒木にも、まもなく特攻が命じられた。
黒木は抗命しなかった。生きる気力を完全に失っていて、すべてがどうでもよくなっていた。近くない将来、日本が敗戦することも、自分が死ぬことも。金本と--蘭洙と生きる望みが絶たれた後、希望は消え失せた。
飛行場の滑走路で水盃を受け取った時も、「赤とんぼ」と通称される練習機の操縦席に乗り込んで飛び立った後も、命じられた通りに死ぬ気でいた。
ところが、海上に出て、あの日のことを--金本が死んだ日のことを思い出した黒木は、ひとつの考えに囚われた。
ーー朝鮮まで、お前は飛べたはずだ。蘭洙……!
意味のないこだわりだと言われれば、それまでだ。しかし、せめて死ぬのなら、金本に生き延びる道があったことを証明して、死にたかった。あの世があるとするなら、金本と再会した時、「俺は飛んでみせたぞ」と自慢してやりたかった。
黒木は、進路を北に変えた。燃料は心もとなく、途中で発動機が止まれば、海に落ちて死ぬ公算が高い。それでも、北へ飛んだ。
九州を縦断し、対馬灘をわたり、朝鮮半島の上空へーー。後から考えれば、よく味方の高射砲に狙われなかったものだ。目立つ橙色の機体で、不明機だとしても、一目で味方の練習機だと識別可能だったからかもしれない。
いよいよ燃料が底を尽くという時、黒木は落下傘を使って脱出した。しかし、前回ほど、幸運には恵まれなかった。風が強く、落下の勢いを十分に相殺できないまま、最終的に青々とした水田に落ちた。
接地した衝撃で、多分、十秒くらいは気絶した。朦朧とした意識のまま、泥まみれで転がっていると、農村の住民らしき男たちが、クワや斧を手にして近づいてきた。
「…日本人だよな ? 生きているのか 、これ ? …あ 、まばたきした 」
「生きてるな 。とりあえず 、警察に 知らせるか 」
朝鮮語を耳にした黒木は、反射的に同じ言葉を口にした。
「おーい 。濁酒でいいから 、酒を一杯くれねえか ?」
泥人間が、自分達の理解できる言葉を発するのを耳にした男たちは、ギョッとなった。
「お、お前。朝鮮人か?」
違う、と言いかけて、黒木は小さなイタズラ心を起こした。
「そうだ。故郷に戻って来たくて、脱走してきた。日本人に爆弾を積んだ飛行機に乗せられて、アメリカの船に突っ込めと言われたが、クソくらえだと思って逃げ出して来たのさ。警察でも憲兵でも、呼びたきゃ呼べ。ただ、その前に恩情で酒の一杯でももらえたら、末代まで感謝するよ…」
男たちは顔を見合わせた。何か言いあっているが、小声なのと早口すぎるので、よく聞き取れない。まもなく、ひとりがどこかへ走り去ったかと思うと、十分も立たずに五、六人の男を連れて戻っていた。
泥まみれの姿のまま、黒木は農村内の一軒家に連れて行かれた。古く、あちこち傷んではいるものの、両班が住まうような立派な作りをしている。
そして黒木は日本が敗戦する日まで、彼を朝鮮人脱走兵だと思い込み、同情した村人たちによって、匿 われることになった。一度、墜落した「赤とんぼ」に乗っていた搭乗員を探しに、日本人の憲兵隊がやって来たが、村人は口裏を合わせて、知らぬ存ぜぬを通すことに成功した。
「名前と、本籍を教えてもらえるかな?」
家の主人ーー思った通り、両班の子孫だったーーで、今は薬屋をしているという男に尋ねられた時、黒木は思いつくままに言った。
「ーー金蘭洙。生まれは、咸境北道だ」
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