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第23章⑨

 高島から得た情報を頼りに、黒木は田宮正一に行きついた。田宮は九州の田舎の地主で、極右の軍国主義者であり、日本がアメリカに占領されている現状に憤懣やるかたない様子だった。あげく、自ら「尽忠報国隊」などというものを結成し「同志」と共に九州の南の隅から世を変えんと、気宇だけは壮大な望みを抱いていた。  黒木は自分が狂気に囚われている自覚があったが、田宮の方も己の作り上げた妄想の中で生きていた。それは黒木にとって、都合のいいことだった。  (あずま)を送り込み、田宮をいいように操ることは、それほど難しくもなかった。    夏が終わり、畑の畔道にコスモスが咲き始める頃、黒木は山陰地方へ向かった。蓮田に語った計画を実現させるために、どうしても欠かせない人間を引き入れるためだった。  目的地の寺へ登る階段は、煩悩と同じ百八段あった。体力に自信のある黒木も、登りきる頃には軽く息が上がる。門をくぐり、建物の入り口で声をかけると奥から年老いた女が現れた。鶴のようにヒョロリと痩せた姿を見るなり、尋ねる相手の母親だと分かった。 「黒木と申します。軍で世話になった千葉登志男さんに、お会いしたいのですが…」   「………母から、あなたが来たと聞かされた時は、何かの冗談かイタズラかと思いましたよ。生きていたんですね」  頬骨の浮いた土気色の顔で、千葉は笑みらしきものを浮かべた。まるで仏画に描かれた餓鬼のような姿だ。黒木は笑わなかった。視線は嫌でも、千葉の首に残る縄の跡にすい寄せられる。 「自殺しかけたらしいな」 「はい。残念ながら、失敗しましたが」  千葉は、淡々と言った。 「畳を汚すと後始末が大変だと思って、境内でやったんですが。細い枝を選んだのが、失敗でした。途中で折れてしまって」 「本堂の仏さんが、止めてくれたんだろう」  黒木は面白くもなさそうに言う。 「仏教では知らんが。キリスト教だと、自殺した人間は、問答無用で地獄行きらしいぞ」 「さようで」 「…またやる気か?」 「おそらく。家族は、嫌がるでしょうけど……なんとなく、もう諦めはついているようです」  どうして千葉が自死を選ぼうとするのか、黒木は聞かない。聞かずとも、およそのところ、見当はつく。かつて自分の機付だった整備班長の人柄を、黒木は多少は理解しているつもりだ。慰めたり、自死を止めるかわりに、黒木は千葉に向かって言った。 「だったら、その命。しばらくでいいから、俺に預けろ」  黒木は自分の計画を打ち明けた。  なぜ、そんなことをするのかという動機も。言葉をひとつ重ねるごとに、気が昂り、怒りが大きくなる。薪を飲み込んで燃える焔に似た感情は、その持ち主の身体も焼き尽くすのかもしれないと、話しながら思った。  …語る黒木を眺める内に、千葉は子供の頃、兄に聞いた異国の神話を思い出した。  はるか昔、チベットで一匹の猿が、仏道修行を行っていた。その信心深い猿に、一人の羅刹女が恋をして、夫婦になるよう迫った。自分と結ばれなければ、魔物の子を生んで、あらゆる生物を殺して食べ、この世界を地獄へ変えると脅してーー。  猿は観音菩薩に助言を求め、慈悲深い観音は猿に羅刹女と夫婦になることを命じた。そして二人の間に生まれた子どもが、やがて人間たちの先祖となった……。  (つが)う相手を失った羅刹女は、まさにこのようになるのだろうと、千葉は思った。  喪失の悲しみを、復讐の怒りに変え、殺戮を繰り返し、周囲を地獄へと変えていく。まるで阿修羅。戦いに明け暮れる悪神のようにーー。  目の前の男は、人であることをやめた。人として穏やかに生きるには、金本の存在が絶対に必要だった。それを失って、悪鬼羅刹と化した。  そのことに哀れみを覚えるとともに、黒木はもはやこの世で救いを得られないのだと、千葉は悟った。仮に、彼の言う「計画」を完遂させたところで、その先に待っているものが何であれ、本当の意味で救われることはない。決してーー。  それに気づいてなお、計画に加わることに千葉は抗えなかった。千葉もまた、恨みを抱いていた。航空機を特攻機に仕立てるよう命じた者たちを恨んでいて、報いを受けさせたかった。  かなうのなら、この世での生を終える前に、因果が応報するところを見たかった。 「手を貸せ。千葉登志男軍曹。手を貸してくれれば、俺が代わりに恨みをはらしてやる」  黒木は言った。 「だから、もう一度。俺のために『飛燕』を飛ばしてくれ」

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