464 / 474
第24章④
列車が関門トンネルを抜けて博多へ到着したのは、大阪を出発して十数時間後のことだった。黒木は博多で、夜を明かした。再度、服装を変えた以外はおとなしく息をひそめ、始発の汽車で再び目的地へと向かう。耳の傷は相変わらず痛んだ。人目につかない場所で一度、ガーゼと包帯を交換した。出血自体は止まっていたが、時折、まだ血が滲んでいるような気がして、何度も包帯の上から確かめた。
車内で、黒木はほとんどの時間、目をつむって過ごし、体力を回復させた。時折、車窓を眺めたが、特に心を惹かれるほどではない。ただ雲の量やその流れる速さに、自然と視線が向く。幸運にも、飛行機を飛ばすには支障がない天気が続きそうな様子だった。
やがて長い旅の末に、黒木の乗った列車は目的地へ辿り着いた。仮に、『飛燕』で飛んだなら二時間足らずの距離だが、地上を這うと二日がかりだ。いい加減、千葉たちが気を揉んでいるかもしれない。大阪での寄り道がなければ、昨日のうちに到着していたはずだった。
降りた駅は、それほど大きくなかった。それでも二十人近い人間が列車からプラットホームへ吐き出される。くたびれた背嚢を背負った黒木も、彼らに混じって改札を目指した。
手ぬぐいで頬かむりし、耳元を隠してうつむき加減に歩いていると、前を歩く男二人が、低い声で囁き合うのが聞こえた。
「おい、あそこ見ろよ。アメリカ兵が立ってる」
黒木は興味のなさそうなふりをして、改札に目を走らせた。観察は、一秒にも満たない。
三人組だ。一人は日本人のような顔つきをしていて、多分、日系二世。残る二人のうち、一人は何を食べたらそんなに育つのかと思うような、巨漢である。
最後の一人は白髪の混じる髪以上に、冬の曇天に似た青灰色の瞳が目を引いた。偶然か。半白髪の男の軍服の肩につけられた徽章は、二日前、炎の中で対峙した朱髪男と同じ、カエデの葉を模していた。三人は駅員と何か話をしていたが、それを中断して降りる客たちに目を向けた。
黒木はほんのわずかに身を強ばらせた。しかし、足を止めることなく改札へ向かって歩き続けた。
その日の朝。
対敵諜報部隊 のセルゲイ・ソコワスキー少佐は、部下のテッド・アカマツ少尉やジョン・ヤコブソン軍曹を連れ、今やすっかり馴染みとなった警察署を訪れた。
田宮正一亡き後、逐電した尽忠報国隊のメンバーと、さらに田宮邸が炎上した直後から行方不明となっている田宮千代の行方を探す中、ソコワスキーは昨日の昼過ぎ、驚愕する情報に接している。
U機関のダニエル・クリアウォーター少佐が、カナモト・イサミの捜査のために訪れた大阪で襲撃されて重傷を負った。同行していたカトウ軍曹も負傷し、さらに対敵諜報部隊 大阪支部の要員たちが、何人も犠牲となったという。
襲撃者についての情報は、遅れてやって来た。当初、「カナモト・イサミ」と表記されていた名前は、次の一報で「黒木栄也」と代わり、その夜の内に黒木の外見に関する情報が、東京の対敵諜報部隊 からもたらされた。
年齢:二十代半ば 身長:一六〇〜一七〇センチ やや痩せ型
身体的特徴:右耳欠損。包帯やガーゼで覆っている可能性大ーー
その頃には、U機関のフェルミ伍長が描いた「カナモト・イサミ(と名乗っていた黒木栄也)」の似顔絵が、九州の片田舎にある警察署まで届いている。そして今朝。ソコワスキーたちは、警察署の日本人警官から黒木に関するさらなる詳細な情報が対敵諜報部隊から届いたと知らされた。情報の一部は前日、W将軍に対して、カトウとウィンズロウ大尉が上げた報告に基づいていた。
タイプで打ち直された書類は、元の英文のままだったので、アカマツに翻訳の手間を取らせることなく、ソコワスキーは読むことができた。
W将軍は、ソコワスキーが九州にとどまっていることにいい加減、しびれを切らしていた。半白髪の少佐に認めた期日を延長することは、多分あるまい。あと二日もすれば、ソコワスキーは東京に戻らなければならないだろう。そのまま、十中八九、黒木が起こした事件の捜査に投入されることが予想できた。
書類をひと通り読み終えて、ソコワスキーは何か引っかかるものを覚えた。
文章の中に記された字句を以前ーーしかもごく最近、見かけた気がした。記憶をたどって思い出そうとするものの、そうすればするほど曖昧模糊としてくる。
ソコワスキーの表情が険しさを増し、部下たちは互いに顔を見合わす。しかし、理由を尋ねるより先に、
「おい、ヤコブソン」
いちばん若く、図体の大きい男を呼んだ。
ともだちにシェアしよう!

