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第24章⑦

 片耳の欠損。身長一六〇〜一七〇センチ。二十代後半の男ーー。 ーー黒木栄也…!!?  驚愕するソコワスキーの服のベルトを、黒木が素早くつかむ。そのまま、柔道の投げ技の要領で自分とさほど変わらぬ体格のアメリカ人を、背後に立つ巨漢に投げつける。  受け止める形になったヤコブソンは、足元のバランスを崩し、その場に尻もちをついた。  ヤコブソンに比べれば、まだアカマツの方が俊敏だった。傾世の美女の正体が、女装した男と気づいた瞬間、腰に下げた四十五口径の拳銃に手を伸ばした。だが、敵から距離をとらなかったのは、明らかな失敗だった。  銃を握ったアカマツの腕を、踏み込んだ黒木が右手で叩き、射線を逸らす。同時に、もう一方の拳を日系二世の少尉の顔面へめり込ませた。鼻骨を砕かれたアカマツは鼻血を吹き出し、崩れるように昏倒した。  黒木は、隠し持っていた拳銃を腰から抜いた。いまだ状況についていけず、呆然と座り込んだままの大男に照準を合わせる。ヤコブソンの頭蓋が、線香花火のように弾け飛ぶかに思えた瞬間。ソコワスキーの手が、ヤコブソンの顔面をつかみ、力の限り地面へ押しつけた。  直後、二種類の銃声が、床に落ちたシンバルのごとく、醜く響き渡った。  黒木の拳銃から放たれた弾が、ソコワスキーの横五センチのところを飛び去る。黒木は舌打ちした。だが、判断は早い。偶然、出くわしたアメリカ兵たちを片づけることはこの場合、必ずしも遂行すべき事柄ではない。  半白髪の敵が二発目の銃弾を放つより先に、黒木は逃走に転じた。  …黒木は結局、知らぬままだった。ソコワスキーらが田宮が陸軍に譲渡した山を特定し、そこに建設された「観測所」を探し出そうとしていることをーーもし知っていたなら、この場で三人を確実に殺していただろう。だが、そうはならなかった。  ソコワスキーは、ふらつく頭で黒木に狙いをつけようとしたが、うまくいかなかった。一発目も二発目も命中させることができず、三発目を放つ頃には、相手は射程圏外へ飛び出し、そのまま姿をくらませつつあった。  ソコワスキーは追わなかった。銃を持つ殺人鬼を、単独で追跡するのは勇敢ではなく、無謀と評される行為だ。歯ぎしりして銃を下ろした少佐は、自分が救った部下をいまいましげに見下ろした。  ヤコブソンは声も出ないようで、犬のように荒く息を繰り返していた。「役立たず」という言葉を、ソコワスキーはかろうじて飲み込んだ。反撃のそぶりも見せず、動かぬデカい的と化したことを今さら責めたところで、どうにもならない。  銃声を聞きつけたのだろう。車に残してきた他の部下と、日本人の警官たちが、この時になってやっと姿を見せた。 「ーーアカマツが負傷した。救急車を一台呼べ!」  対敵諜報部隊(CIC)の要員に、英語で叫ぶ。何が起こったのか説明しかけた時、ソコワスキーはようやく、下敷きにしていた相手の異変に気づいた。 「…ヤコブソン?」  そばかすの残るヤコブソンの顔は、蒼白になっていた。酸欠の魚のように口を動かしているが、声がまったく出ていない。実際に、うまく息ができないのだと、ソコワスキーは悟った。 ーー息ができないのよ、セルゲイ…!!ーー  自分が死なせた女が、頭の中で叫び声を上げる。  ソコワスキーは焦り、迷った。一秒でも早く応援を呼んで、黒木を追いかけなければいけない。だが、パニック発作に伴う呼吸困難が、それを起こす当人にとって、どれほど苦しくて恐ろしいか、ソコワスキーは嫌になるほど知っていた。  ソコワスキーは急いでヤコブソンの上体を起こし、その目をのぞき込んだ。 「落ち着け! お前は、どこも撃たれていない。恐ろしい目に遭ったせいで、息苦しくなる発作を起こしているだけだ。命に関わるものじゃない。大丈夫だから、ゆっくり息を吐け…」  聞こえていないのか。聞こえていても、うまく頭に入らないのか。ヤコブソンの目の中の恐怖は消えるどころか、濃くなる一方だった。 ーーああ、くそ…!  ソコワスキーは一瞬、ためらったが、手のかかる部下を落ち着かせて、逃げた殺人鬼を追うためだと、自分に言い聞かせた。ヤコブソンの背中に腕を回し、幼児をあやすように耳元でささやいた。 「大丈夫だ。お前は、ちゃんと息ができるーー」  ヒュウ、ヒュウ、と口から漏れる息を聞くうちに、ソコワスキーの心に罪悪感がわいてきた。ヤコブソンを駅で待たせておくべきだった。いや、そもそも今回、九州へ連れてくるべきではなかった。東京に残っていれば、また殺されかけるという、最悪の経験をさせずに済んだのだ。  しかしヤコブソンがいなければ、黒木の変装を見破れず、まんまと取り逃していただろう。  さまざまな思考と感情が入り乱れる中、ようやく少しずつ、ヤコブソンの呼吸が平常に戻っていくのをソコワスキーは感じ取った。

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