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第24章⑧

 同日、午前八時半。  ソコワスキーらがいる九州南部から、約九百キロ離れた東京の荻窪。 「じゃあ、ミィはそろそろ出勤するけん。ちゃんと寝て身体、休めときや」 「ああ…」  様子を見に来た同僚のササキに対し、カトウはベッドの上から応答する。起き上がることもできたが、ササキが「寝たままでいい」と言ったので、そうさせてもらった。  大阪でカトウが遭遇した出来事について、ササキもすでにあらましを知っている。そして、うっとうしくなるくらいに、カトウのことを心配していた。 「あんま気ィ、落とさんようにな」 「……」 「少佐のことで知らせが入ったら、すぐ知らせるけん」 「頼む」  ササキは「おう」と応じて、ドアを閉めた。間も無く、階段をドタドタと降りていく音が、ベッドに横たわるカトウの耳に届いた。  昨晩、カトウは眠れなかった。不眠症がひどかった頃のように、浅い眠りに落ちかけては目を覚ますことを繰り返し、朝を迎えた。昨日、曙ビルチングに戻った時、用意されていた夜食は食べたが(アイダが気を利かせて、管理人に頼んでいた)、朝食はまだ摂っていない。  頭の中で、ずっとクリアウォーターのことを考えていた。そして、黒木が起こした一連の事件のことも。考えないようにしても、無理だった。 ーー九時を過ぎたら、少佐のいる病院に電話しよう。  そんなことを思っていると、誰かが階段を登ってくる音がして、部屋のドアがノックされた。 「加藤さん、おはようございます。おかげんは、いかがです?」  管理人の杉原が、ドアの隙間から顔をのぞかせる。 「あのですね。下に、加藤さんを訪ねていらした方がいまして。お会いできそうですか?」 「……誰です?」 「ええっと、賓頭盧(びんずる)さん……いや、違ったか。でも、そんな名前の方がいらしてますよ」  麦わら色の髪とやたら長い手足を持つ男が、食堂のテーブルに腰かけているのを目にし、カトウはゲンナリとなった。そんなカトウの内心などお構いなしに、エイモス・ウィンズロウ大尉は、陽気に手を振った。 「ハァイ、おチビさん。見たところ、割と元気そうね。気分の方は?」 「たった今、最悪になりました」 「あら、そう? 前に飛行機に乗って吐いた時に比べれば、かなりマシに見えるけど」  カトウの精一杯の皮肉は、ウィンズロウの面の皮の厚さを前にあっさり弾かれた。 「つっ立てないで、座ったら? あ、オーナーさん。悪いけど、コーヒー一杯もらえるかしら? お代は払うから」 「管理人の杉原さんは、あんまり英語が通じませんよ」 「そうなの。じゃ、あなたが翻訳してよ」  心底、イヤだという表情を、カトウは浮かべる。断るか、あるいは唐辛子か胡椒を入れるよう頼む誘惑にかられる。だが結局、ため息をつき、自分の分も合わせてコーヒー二杯と、それから朝食用のパンの残りを杉原に頼んだ。 「それで、いったい俺に何の用です?」  カトウは単刀直入に尋ねる。どんな用件にせよ、とっとと断りを入れて、腹立たしい大尉にお引き取り願うつもりだった。 「別に特別、用事があるわけじゃないわ」  ウィンズロウは出されたコーヒーに、砂糖をスプーン半分だけ入れた。 「調布に戻る途中、近くを通ったから。あなたがどうしてるかと思って、寄っただけよ。昨日、ずいぶん気落ちしてでしょ」  ウィンズロウはニィと笑った。 「落ち込んでる(ひと)を見ると、ついつい慰めたくなるの、ワタシ。性分ね」  カトウは無言でコーヒーをすすった。どう反応したものか、困った。他人の好意はーーたとえ、それが大嫌いな男でもーーむやみに無下にできなかった。 「ワタシ、今日は一日、予定ないの」  ウィンズロウは言った。 「気晴らしにどこかに行かない? ジープで来てるから、連れて行ってあげるわよ。そういう気分じゃないなら、話し相手にでもなるし」 「いえ…」  結構です、と言いかけて、カトウは不意に思いついたことを口にした。 「ーーそれなら、調布飛行場に連れて行ってもらえませんか」 「…え。飛行機に乗りたいの?」 「違います」  カトウは即否定した。 「調布は、その…黒木栄也と金本勇が同じ時期にいた場所なので」  言葉足らずな説明だったが、ウィンズロウはすぐにピンときたようだ。 「黒木が過去にいた場所を、見ておきたいってこと?」 「はい」 「どうして今さら? 黒木を捕まえさえすれば、本人の口から動機なんていくらでも聞けるでしょう」 「それは、そうですが…」  カトウは口ごもる。自分がやろうとしていることは、おそらく捜査には何の役にも立たない。  丸一日、寮で無為に過ごしたくないから、何かしたいだけの、ただの自己満足である。  それでも、カトウはわずかばかりでも、真相に近づきたかった。  黒木がなぜ、部下の中から金本を選んで、その名前を騙り、殺人現場に「丹心歌」のフレーズを残して行ったかをーー。  沈黙するカトウを一瞥し、ウィンズロウは肩をすくめた。 「まあ、いいわ。行って気が済むのなら、案内してあげるわよ」

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