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第24章⑯

「で? おチビさん。赤毛さんのカバンに入ってた資料を見るために、来たんじゃなかったかしら?」 「ええ。でもサンダース中尉がいないと、資料がどこにあるのか聞けないので…」 「あそこに置いてるよ」  フェルミが机の一角を指差し、「しょうがない」と言うふうにため息をついた。 「スティーヴ・アートレーヤ・サンダースとリチャード・ヒロユキ・アイダが、この部屋でダンの持ち帰ったカバンの中身を整理してたんだ」  机の上には封筒と紙の束が、無造作に積み上げられていた。おそらく、連絡が入って急いで参謀第二部(G2)に向かったため、片付ける暇がなかったのだろう。  カトウは東京に戻る飛行機の中で、カバンの中身にざっと目は通した。とはいえ、断りなく再び捜査資料を見ることに、ためらいを覚える。けれども、フェルミはあっさり言った。 「ジョージ・アキラ・カトウなら、見ても別に怒られないよ。なんなら、スティーヴ・アートレーヤ・サンダースには黙っとく。そのかわり。見終わったら、すぐに帰って休みなよ」 「…ああ。ありがと」  フェルミの計らいに感謝し、カトウは資料に手を伸ばした…。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  ポタリ、ポタリと汗の滴が、こめかみから顎を伝って流れていく。身につけた女物の着物は、すでに汗でべったりと身体に張りつき、時間の経過と共に不快さを増している。おまけに傷ついた耳の辺りが、他より熱を帯びている。化膿すると、黒木はぼんやり思った。  もっとも雑菌が我が物顔で増殖して悪さを始める手前で、宿主の身体自体がなくなっているだろうが。  千葉たちが待つ「観測所」のある山へ入って、早一時間。鉄道駅の近くでアメリカの軍人一行を襲い、現場から逃走して二時間が経過している。腰を下ろすのにちょうどいい空間を見つけ、黒木は山に入って初めて、休息を取った。  背負ったリュックサックから水筒を取り出し、生ぬるい水をあおる。それから、煙草ーー女装中は控えていたーーを喫うと、ようやく気分が、少しマシになった。  休む間も周囲を警戒するが、自分以外に人はおろか獣の気配すらない。道中、さんざん注意してきたが、どうやらアメリカ人たちの追撃は、何とかかわせたようだ。  しかし、自身の運の悪さにつくづく腹が立った。こんな田舎の駅に、アメリカ兵がいるとは。しかも、うまく煙に巻けそうだと思った瞬間、職務熱心な大男の兵士に、正体を見破られた。今まさにこの瞬間、アメリカ兵のお仲間たちが山の麓を捜索していてもおかしくない。  そのことが、「計画」にどれほど影響をもたらすか、黒木は考えた。 ーー俺と(あずま)は、まあ逃げ切れる。問題は「あそこ(観測所)」に残る千葉たちだ…。  本来の計画では、千葉たちは夜明けまで「観測所」にとどまり、その後、下山する予定だった。しかし、万全を期すなら、夜のうちに出立させた方がいい。  短い休憩を終え、黒木は再び立ち上がる。目的地への道は頭に入っている。おまけに、ここに上がってくる途中の木々に、目立たぬ形であちこちに印が残してあった。千葉か東あたりが、念の為に道標を残してくれたのだろう。  それを辿って、黒木は山道を軽々と踏み越えていく。  金本の故郷へ向かった道中に比べれば、容易いものだった。  …一九四五年九月。すでに朝鮮北部では至る所に、ソ連兵の姿があった。  日本が敗戦するわずか一週間前。ソ連は日ソ不可侵条約を破棄し、日本に宣戦布告。満洲、サハリン、千島列島、そして朝鮮半島へ向けて、怒涛の勢いで侵攻を開始した。  とりわけ、悲惨な状況が生じたのは満洲である。在留日本人を守べき関東軍がいち早く逃亡したために、残された居留民たちは着のみ着のまま、積み上げてきたもの全てを捨てて逃避行をせざるを得なかった。  大勢の日本人が、ソ連兵に略奪され、蹂躙され、犯され、殺された。あるいはそうなる前に、自ら命を絶った。  同じ頃、黒木は「金蘭洙(キムランス)」として、ある朝鮮人の家に匿われていた。  薬屋を営む主人は、日本人たちの運命の転変に一抹の憐憫を抱いたように見えた。だが、彼以外の村人は、長年自分たちを支配し、搾取してきた「イルポニン(日本人)」が、悲惨な目に遭った話を聞いても、大して同情はしなかった。  そして黒木はといえば、日本が敗戦したことに、ほとんど感傷も湧かなかった。  ただ、自分が生き残ったという事実を、どう受け止めていいか分からなかった。ありていに言えば、苦しかった。金本はいない。金本がいてくれさえすれば、どんな悲惨な状況でも生きのびたことを、喜べただろうにーー。  一方、黒木の内心の葛藤を知らぬ主人は、ある夜、嬉しそうな顔で告げた。 「各地にいる日本の官憲が、どんどん本土へ引き上げているそうです。これでもう、あなたが逃亡の罪に問われることはないでしょう。晴れて自由の身となって、家族の元へ帰れますよ」  主人の言葉を聞いて、黒木は思い出した。  調布飛行場まで、息子を訪ねてきた金旻基(キムミンギ)ーー金本の父親は、家のある咸鏡北道(ハンギョンブクト)へ戻り、程なく息子の戦死を知ったはずだ。  黒木はその瞬間、心に決めた。  金閔基に会いに行こう。会って、金本の死の真相を伝えるべきだ。  金本の戦死を讃える新聞記事を、黒木は一度、読んだが、反吐が出そうになった。  そこでは、金本は日本の国難を憂えて特攻に志願し、米軍の戦闘機から仲間を救った「英雄」として描かれていた。「朝鮮男児の意地を見せた」とーー。あんなものは嘘っぱちだ。 ーー蘭洙(ランス)は、特攻になど行きたくなかった。だが、拒絶すれば家族に危害が及ぶから、仕方なく命令に従った。あいつは空の上で撃ち落とされそうになっていた俺を救った。本当に…残される側のことを考えていない、大バカ野郎だった。    どんな形であれ、生きていて欲しかったのにーー。  金本の父親や母親に、真実を伝えられるのは黒木しかいなかった。

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