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第24章⑰
黒木が匿われた村から咸鏡北道の道境まで、陸路では五百キロ近い距離があった。しかも地図で確認したら、金本の生まれ故郷はさらにその先の豆満江 の支流にある。思い立って、容易に行ける場所ではない。
黒木は一ヶ月かけて、入念に準備をした。村内の雑務をこなして、現金を得ると、それで防寒具や食糧などを揃えた。季節は今後、秋から冬へ向かう。特に十月後半から十一月頃の天気は読みにくい上、内陸部では気温は氷点下となる。できる限り対策をするに、こしたことはない。
そうやって十一月上旬。黒木は数ヶ月間、世話になった家の主人や村人たちに礼を言っていとまごいし、たった一人で北へ向けて旅立った。
まず港に出ると、そこから船で羅津 へ向かった。上陸後は、特にソ連兵の多さに驚かされた。その兵士たちに呼び止められた時、流石に黒木もひやりとした。日本人であることを見破られたと思ったのだ。けれども、兵士らは身分証の確認さえしなかった。単に、性欲のはけ口として、女を探しているだけだった。旅装の黒木を、髪の短い妙齢の女と勘ぐり、声をかけたものの、正真正銘の男だと知った途端、悪態をついて放り出した。
この頃、すでに羅津一帯の気温は氷点下に達していた。おまけに上陸した二日後、珍しく一日中雪が降り、辺り一面を白銀の世界に変えた。
黒木は雪が止んだのを見はからい、歩いて旅を続けた。日本人がつくった鉄道はソ連侵攻の際に破壊され、あちこち断線しており、しかも列車は不定期にしか出ないと聞いていた。
黒木は京城 の生まれだが、もとより咸鏡北道に来るのは初めてである。ソ連兵を避けながら、朝鮮人を見かけては道をたずね、人がいなくなると、持ってきた地図と方位磁石を使い、陰気な冬の街道を進んでいった。
そうやって、歩くこと五日後。
生前の金本から、いく度も話に聞いた彼の生まれ故郷へたどり着いた。
平原と田畑には、数日前に積もった雪が溶けずに残っていた。見渡す先に、熊だけでなく虎も出るという山がそびえ立っている。その麓に、三十戸ほどの草葺の家が、肩を寄せ合うように建っていた。
村の入り口近くにある一軒の家に、黒木は近づいていった。食事時でもないのに煙突から煙が出ているのは、クドゥル(※暖房装置の一種。オンドル)を使っているからだろう。最初に家畜小屋から牛の鳴き声が聞こえ、それから、泥棒と熊よけのために飼われている大きな白犬が、不審者の姿を認めて吠え出した。
噛まれないよう距離をとりながら、黒木は家の方へ向かって、大声で呼ばわった。
「すみません! この村に住む金旻基 の遠縁に当たるものです。申し訳ないですが、金一家の家がどこにあるか、教えていただけないでしょうか?」
言い終えた黒木は、家から誰か出てこないか待った。だが、帰ってきたのは沈黙だった。
番犬がけたたましく吠える声だけが、あたりにやたら大きく響く。
黒木が諦め、別の家へ向かいかけた時、古びた板戸が外へ向かって開かれた。
隙間から、ぬっと姿を見せたのは、あちこちに繕 い跡のある外套を着た老人だった。両手で猟銃を持っている。銃口こそ下を向いているが、隙のない構え方で、日頃から使い慣れていることがうかがえた。
老人は黒木を一瞥し、目をすがめた。
「金旻基 の親類だと? 見たことのない顔だな」
「私は日本で生まれて、ずっとそこで育ちました。日本が戦争に負けて、今日ようやく父祖の地に戻ることができたんです」
「…たしか旻基の弟が、日本に出稼ぎに行ったはずだ。会ったことは?」
「あります。哲基 おじでしょう。光洙と蘭洙にも、昔、会ったことがあります」
金本から聞いた昔話を思い起こしながら、黒木はとっさに作り話を並べる。
大してうまくもないが、それでも効果はあった。自分が知る名前を聞いたことで、老人はようやく信用したようだ。しかし、猟銃のかまえを解くことも、まして長旅をしてきたであろう男を家に招き入れるそぶりもない。
それどころか、黒木が予想だにしなかったことを言った。
「悪いことは言わん。村には入らず、今すぐ立ち去れ。ソ連兵や共産党の連中に見つかる前にだ。金旻基の血縁だとやつらに知られたら、ただじゃ済まないぞ」
「…どういう意味です?」
この時点で、嫌な予感がした。聞き返してきた黒木を、老人は睨む。そして、
「…入れ」
唐突に一歩下がり、黒木をしぶしぶ家の中へ招き入れた。
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