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第24章⑳

 新たな決意と共に、黒木は村を出た。日本へ戻る。そして小脇順右や河内作治、さらに特攻作戦を指導した者たちに、復讐するとーー。  すでにこの頃、朝鮮半島の南北は三十八度線で分断されていた。北緯三十八度以北を占領したソ連軍は、米軍の占領地域との境界上に検問所を設け、人々が南へ逃げ出すことを阻止していた。しかし駐屯するソ連兵は往々にして、仕事熱心ではなかった。夜間、徴用した朝鮮人を見張りに立たせ、自分達は寝てしまうケースがしばしばあった。黒木がたどり着いた検問もまさにそういう場所で、歩哨に立っていた朝鮮人の男に「南にいる家族の元へ帰りたい」と朝鮮語で伝えると、こっそり通してもらえた。  そうやって、黒木は日本行きの船が出ている釜山(プサン)へとたどり着いた。  釜山の港は、朝鮮半島だけでなく、満洲から逃げ延びてきた日本人で、溢れかえっていた。さらに海峡を越えて船が到着するたびに、故郷に引き揚げてきた朝鮮人たちがそこに加わった。  日本行きの船を待つ黒木が、白い幟旗(のぼりばた)を掲げた十人ほどの集団と遭遇したのは、まったくの偶然からだ。厳粛な面持ちで歩く彼らの先頭で、人の背丈ほどもある白い麻布が揺れている。そこには漢字で、こう記してあった。 「咸鏡北道〇〇郡▲▲面 金光洙義士之遺骨」  さらに後ろの人物が掲げる白布には、金光洙の「義挙」として、ざっと次のようなことが書かれていた。 「ーー金光洙義士は朝鮮独立をめざし、不撓不屈(ふとうふくつ)の精神で日本帝国主義を打倒せんことを誓った。戊寅年、金光洙義士は東京にて、自らの身命を以て……」  それ以上、読む必要はなかった。黒木は考えるよりも先に、一行の前に立ちふさがった。 「おい、これは一体、何の茶番だ?」  突然、行く手を阻まれた男たちは、驚いて反射的に足を止める。しかし先頭にいた男はすぐに、胸を張って答えた。 「お前、金光洙義士を知らんのか? 一九三八年に…」 「日本の皇太子を暗殺しかけて死んだのは、知っている」 「…金光洙義士は大義に殉じられた方だ。亡くなられた後、東京の墓地に人知れず埋葬された。日本が戦争に敗れ、圧政の時代が終わり、ようやく遺骨を朝鮮へ帰すことができるようになったのだ」 「咸鏡北道へ向かう道は、ソ連が封鎖しているぞ」 「そうだ。だから、ひとまず遺骨は京城(ソウル)へ運ぶ。いずれ、ソ連軍が引き上げた後、咸鏡北道へ改葬する予定だ」  男はもう、十分説明したと思ったのだろう。後ろの人間たちをうながし、再び歩き出そうとした。黒木はなおも、食い下がった。 「金光洙の弟。金蘭洙のことは知っているか?」  先頭の男が、足を止めた。振り返り、黒木に向けた顔には、嫌悪が浮かんでいた。 「金蘭洙は、兄である金光洙義士の薫陶に浴しながら、朝鮮民族を裏切った恥知らずだ。語る価値もない」  男たちが去っていくのを、黒木は呆然と見送った。  黒木も、男たちも知らない。  一九三八年、自爆テロを起こして死んだ金光洙の遺骨は、当時、東京憲兵隊にいた甲本貴助の一存で、密かに弟の金蘭洙ーー金本の元へ返されたことを。無縁墓地に「金光洙」として葬られたのは、別人の骨であったことを。そして本物の光洙の遺骨は、金本の手で故郷に戻され、金家の家廟に祀られていたが、今は廟もろとも破壊され、雪と土の中に散じ、埋もれていることをーー。

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