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第25章⑤
同時刻。九州南部ーー。
セルゲイ・ソコワスキー少佐は、何杯目か数える気も失せたコーヒーを口に含んだ。とっくの昔に冷めていて、苦く不快な味だけが舌に残る。
空になった紙コップを握りつぶし、ソコワスキーはあたりを見渡した。普段、日が暮れれば人影が絶えるであろう山村の一角に、祭りと錯覚するほど多くの人間が集まりつつあった。
アメリカ人兵士。日本人の警官。さらに地元の消防団や、青年団の男たち。猟銃を携えた猟師の姿さえある。全員が、東京からこの地へ逃げ込んできた殺人鬼ーー黒木栄也を捕まえるために、集結した者たちだ。
その中に、ソコワスキーも混じっている。しかし丁重な扱いと裏腹に、疎外されていることを、ひしひしと感じていた。
当然と言えば当然だった。ソコワスキーは日中、逃走中の黒木と偶然、鉢合わせた。だが、千載一遇の機会を生かすことなく、まんまと逃がしてしまった。愚鈍と評されても仕方がない。もし他人が同じ轍を踏んでいたら、ソコワスキー自身がそのことを痛烈に非難していただろう。
同じく現場に居合わせたアカマツとヤコブソンは、今この場にいない。
アカマツは一番近い病院で、黒木に折られた鼻の手当てを受け、そのまま入院となった。ヤコブソンは宿で休んでいる。過呼吸はおさまったものの、これ以上、連れ回すことはすべきでないことは、誰の目にも明らかだった。
黒木が姿をくらました後、ソコワスキーは警察署へ戻り、黒木発見の第一報を、参謀第二部 のW将軍と対敵諜報部隊 本部へ伝えた。将軍は、ソコワスキーにその場に留まり、現地の関係者と協力して、黒木の確保に全力を尽くすよう厳命した。
それから二時間もしないうちに、対敵諜報部隊 熊本支部の要員たちが、車を飛ばして到着した。その間、付近の複数の警察署が動かせる人員を全て動員して、黒木の行方を捜索している。周辺への徹底的な聞き込みの甲斐あって、黒木が鉄道駅からそう遠くない山の一つへ向かったことが、明らかになった。
ソコワスキーが薄々、予見していたことだがーーそこは例の「観測所」のある山だった。
ーー黒木栄也は、東智とつながっていた。
黒木も田宮正一たちの計画に、関与していたのだ。しかし、東京にいた黒木はおそらく知らない。天皇誘拐をくわだてた張本人の田宮が死に、「尽忠報国隊」のメンバーたちも逃亡したことを。知っていれば、わざわざここまで来なかったはずだ。
ソコワスキーは、山の稜線をにらんだ。夜明けと共に、ここに集まった男たちによって、大規模な山狩りが開始される。そうなれば、黒木の逃走劇もいよいよ終止符が打たれるだろう。いかに悪運に恵まれようとも、今度こそ逃げのびる余地はない。
そのはずなのに、ソコワスキーは不安を打ち消せずにいた。黒木がまた、米軍や日本警察の捕縛の手をすり抜けて、姿をくらますのではないか、と…。
ソコワスキーはいらいらとタバコに火をつける。
日の出まで待つ時間がとにかく、もどかしい。焦慮に駆られる内に、ふと危険な考えがよぎった。
ーー…二年前の今頃なら。あの山を爆撃できたんだが。
太平洋の島々や沖縄で行われた上陸戦のことを、ソコワスキーは思い浮かべた。
海からの艦砲射撃と空からの絨毯爆撃は、時に地形さえ変えるほどの凄まじい破壊をもたらした。もしも砲弾か爆弾で黒木を吹き飛ばせたら、さぞかし胸がすくだろう。
しかし、それはあまりに現実離れした妄想だった。
ソコワスキーは、ため息まじりにタバコの煙を吐き出す。
戦争はとっくの昔に終わった。黒木や「尽忠報国隊」のメンバーを捕らえるのは、地に足のついたやり方でするしかない。ソコワスキーは苛立ちを抑え、自分自身に言い聞かせた。
半白髪の少佐は、まだ気づいていない。彼の考え方は、実のところ間違っていた。
敵である黒木は、地に足のついたやり方など歯牙にもかけず、追跡者たちを嘲笑うようなやり方で、準備を進めていたからである。
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