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第25章⑥
洋間の扉に柴田ともう一人。カーテンをひいた二カ所ある窓に三人。そして松岡と蓮田が、肘掛け椅子に座るエンペラー と、床に正座する侍従を前後に挟む形で対峙していた。
椅子に座れという蓮田の指示を、侍従は拒んだ。エンペラー と並んで座るなど、畏れ多いというのが理由だ。蓮田はその心理が理解できなくもなかったので、それ以上強要はしなかった。万一、侍従がおかしな動きを見せれば、立ち上がる前に撃てばいいだけである。
蓮田をのぞき、誰も口を開かなかった。だから、少し耳をそば立てれば、部屋の外で絶え間なくする靴音が、容易く聞き取れた。その音は、あたかも引いては返す波のようだった。あるところまで近寄ると、そこで止まる。不測の事態をーー逆上した立てこもり犯たちが、人質に危害を加えることを恐れているのだろう。
警察官やアメリカ兵たちが、前代未聞の事態を前にどう対処するか、迷いに迷っている。その光景を想像するのは、蓮田にとって小気味よいことだった。
それに比べーー。
「えらく落ち着いているな」
蓮田は、寝巻き姿の男に言った。エンペラー は自分に話しかけられたのだと、すぐに気づかない。ややあって、ようやく我に返ったように、
「うん。まあ落ち着いている」と言った。
「君も、落ち着いているように見える」
蓮田はその言葉を聞き、傷跡の走る唇をゆがめた。
「はは。こう見えて、本当は心臓がバクバクしてますよ。…俺はガキの頃、学校の奉安所(※天皇と皇后の写真を安置する社)の前を素通りしたのがバレて、教師にこっぴどく殴られたことがありましてね。写真ですら最敬礼せにゃならん相手と、こうして直 に口を聞く日が来るとは、思いもよりませんでしたよ」
蓮田は、いつもより饒舌だった。緊張している自覚がある。そのことに苛立ち、気分をまぎらわすために、さらに言葉を継いだ。
「俺は、深川の生まれでね。皇居からほんの四、五キロしか離れていない下町で、歩いて二時間もかからんでしょう。でも、暮らしぶりを比べたら、天と地ほどの差があります。…質屋って、知っています?」
蓮田の問いに、エンペラー は抑揚に乏しい声で「知っている」と答える。
「時計や宝飾品を担保に預けて、金を借りるところだろう。行ったことはないが」
「うちや近所の連中は、毎日、世話になってましたよ。と言っても、家に金目のものがあるわけじゃない。『赤貧洗うがごとし』を地でいく貧しい家ばかりだ。じゃあ、何をあずけるかというとですね。朝、米を炊いて飯を食ったあとの釜を持って行くんですよ」
蓮田が予想した通り、エンペラー はピンと来ていないようだった。侍従も。ただ、仲間の松岡まで同じように理解できていないらしいのは、意外でもあり、少し傷ついた。松岡の家では多分、金を借りる時に、他に持っていけるものがあるくらい、生活に困っていなかったのだろう。
「…飯炊きの釜を質屋にあずけて、それでわずかばかりの金を受け取る。日が出ている間に、母親がその金で必要なものを買って、夕方、日銭を稼いできた親父から金を受け取って、朝にあずけた釜を取りに行くんですよ。釜の中で冷えて固くなった飯と大根なんかの汁物で夕食をとるというわけです…」
そこまで言った時、外で動きが生じた。警察が拡声器を持ち込んだのだろう。ひび割れた勧告の音が、室内にいる蓮田たちの耳に届いた。
「ーー…松岡弘! その仲間である諸君!! 我々には話し合う準備ができている。立てこもっている部屋から、今すぐ人質とともに出て来るんだ!! これ以上の抵抗は、家族に迷惑をかけるだけだ。諸君らを産んでくれた母親が泣くぞ……ーー」
「……お袋がどこで泣いてるかなんて、知らねえよ。あの大空襲の夜以来、結局、骨も見つけてやれなかったんだから」
蓮田は吐き捨て、めんどうくさそうに立ち上がる。持ち込んだカバンから手榴弾を取り出し、窓へ近づく。エンペラー を迎え入れるために、邸内は隅々まで磨き上げられている。窓はほんの少し力を入れただけで、苦もなく開いた。
蓮田はカーテンをはねあげ、鋭いモーションでピンを抜いた手榴弾を放り投げた。そのまま、窓枠の下にしゃがむ。直後、少し離れた場所から炸裂音が響き、悲鳴と喚き声が聞こえてきた。
声を無視し、蓮田は何事もなかったかのように、窓を閉めた。
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