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第25章⑧

 日付が変わった深夜。カトウはふとした瞬間に、目を覚ました。  いつもと異なる枕の感触。自分のものでない寝息が、少し離れたところから聞こえてくる。熟睡するフェルミはカトウがかけてやった布団を、早くも足で蹴り飛ばし、狭いベッドの端から片腕を突き出していた。その姿を眺め、カトウはため息をついた。布団を拾い上げ、フェルミが寝冷えしないよう、もう一度、腹部にかけてやった。  自分にあてがわれたベッドに腰を下ろしたものの、すっかり目が覚めてしまった。眠ろうとしても、あれこれ考えて、余計に寝られなくなりそうだ。  カトウは靴を履く。飛行場を一周、散歩したら、多少は気が紛れて眠りやすくなるだろう。  フェルミを起こさぬよう足音を忍ばせ、カトウは部屋を出た。  ウィンズロウと共にフェルミを運び込んだ時、調布飛行場内の建物には、まだポツポツ明かりが灯っていた。しかし今はほとんど消えて、敷地全体が静まり返っている。幸い、半月が上がってきたおかげで、夜目のきくカトウはあまり困らず、歩き回ることができた。  もっとも、頭の中はいまだ迷走状態が続いている。   ーー黒木はなぜ金本の名を騙り、殺人を重ねたのか。 ーーその行為は、黒木にとって単なる復讐ではなく、正義だったのか。 ーー「丹心歌」の最後の一句を、誰のために残していたのか。  謎は何一つ解けていない。だが、黒木は日本列島を横断した末、とうとう追いつめられつつある。捕まって尋問が行われれば、動機も含め、すべてが白日の元に晒されるだろう。  黒木がその時、生きていればの話であるが…ーー。  カトウは、夜明けを待ち遠しく感じた。  夜が明ければ、クリアウォーターのいる病院にまた電話をかけられる。もしもその時、クリアウォーターがまだ目を覚ましていないのなら。昼間、ウィンズロウが提案したことを受け入れようと、カトウは決めた。  休暇を申請して、大阪へ向かう。黒木の行方が判明した今、多分、許可は下りるだろう。  クリアウォーターのそばへ戻ることができる。そう考えて、カトウの心はほんのわずかに慰めを得た。  月明かりを頼りに、カトウは滑走路に沿ってあてもなく彷徨った。そうやって歩く内に、らちもない想像にかられる。 ーーあの黒木も、こんなふうに眠れない夜は彷徨いでたりしたのだろうか。  あるいは、大阪で出会った今村や、他の「はなどり隊」のパイロットたちもーー。  その時、突然、強い風がカトウに向かって吹きつけてきた。一瞬、飛行機のエンジンに似た轟音が、風音に混じる。巻き上げられた砂が顔に襲いかかり、カトウはたまらず腕で目を覆う。  幸い風は長く続かず、まもなくおさまった。ほっとして、カトウが腕を下ろした時だった。  七メートルと離れていないところに、日本陸軍の飛行服を着た男が立っていた。  見えたのは、ほんの刹那のことだ。しかし、その姿は強烈な鮮明さをともなって、カトウの眼球に焼きついた。  写真と同じ巻き方のマフラー。名札のついた縛帯。幾人もの人間から聞いて想像していた通り、いかにも威圧的な体躯の持ち主だ。  けれど、その双眸に他人を拒絶し、射抜くような光はなかった。  そのかわり、すがって何かを訴えるような哀しい目で、金本勇はカトウを見つめていた。  疲労から見た幻か、幽霊か、はたまたSF的な残存思念か。  まったく分からないが、金本の姿は現れた時と同じくらい、前置きなくかき消えた。  金本が消えた後も、カトウは根が生えたように、しばらくその場で動けなかった。ようやく心を奮い立たせ、金本が立っていたあたりへ近づく。  おぼろな月明かりが、ムクゲの木に降り注いでいた。  昼間、咲いていた花の大半は、短い命を終えてしぼんでいた。ただ、一輪だけ。自然の摂理に逆らうように、花弁を開いたままカトウを待っていた。  カトウは、花に顔を近づける。  その微かな香気をかいだ瞬間、絡まり合っていた謎の糸が嘘のように、ゆるゆると解けた。  大阪で韓父子に聞いた話。英雄としてまつり上げられた金光洙。兄と対照的に愚かな死に方をしたとみなされた金本勇。  黒木が金本を墓場から蘇らせたのはーー金光洙のような英雄にするため。  そのために、丹心歌の最後の一句を捧げるべき相手はーー。 「ーー…いや。無理だ。黒木には、不可能だ」  カトウは安堵する。黒木は今、九州の片隅に追いやられている。  。  カトウは自分の考えにギョッとなった。思わず、背後を振り返る。  そこには、巨大な格納庫がそびえたっていた。鉄骨に覆われた巣の中で、金属製の巨鳥たちが眠りについている。  黒木は飛行戦隊の指揮官で、しかもアメリカ軍さえ一目を置くエースパイロットだった。  翼さえ獲ればーー。  ガアっという耳障りな音が、カトウの頭上から降ってきた。何事だと、いぶかる間もない。  次の瞬間、大音量のサイレンが格納庫に設けられたスピーカーから響き渡った。

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