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第25章⑩

 …閉じ込められた暗闇で、田宮千代はずっと息をひそめている。  だが一度だけ、我慢できずに扉の隙間からほんの数秒、外をうかがった。この場所に新たに到着した人物を見るためだ。  一目見て、千代は驚いた。東や千葉たちに囲まれているのは女装した男で、しかも恐ろしいくらいの美男子だった。耳に巻いた包帯から血がにじみ、流れた汗で化粧もくずれていたが、それがかえって凄みを増している。常軌を逸した魔性の美貌と言うべきだろう。ただ立っているだけで、普通の人間と違う。そして千葉たちの扱いから、この男こそが彼らのリーダーで、すべての元凶であることは明らかだった。  その女装男に、千代はあやうく見つかりかけた。水で化粧を洗い落とした後、男が千代の隠れている部屋の扉を、なんの気なしに開けようとした。鍵はかかっていなかった。男が到着する少し前に、訛りのある日本語を話す青年が水を差し入れて、鍵をかけずに出ていったのだ。  絶体絶命。しかし扉が開く寸前、男の後ろから、早足に誰かが近づいてきた。 「どうした?」  扉の取手に手をかけたまま、男が言う。だが、相手から返事はない。声がないことで、千代は東だと気づいた。  張りつめた静寂に、男のいらだった声が混じった。 「…ちっ。指文字じゃ、まどろっこしい。言いたいことがあるなら、紙に書いて持ってこい」  男はそのまま、東と一緒に部屋から遠ざかっていった。千代は口を手のひらで押さえたまま、安堵の息を吐いた。しばらくして、また誰かが来て、扉の外から鍵をかけた。  千代は再び、孤独な時間に放り出された。  「観測所」にたどり着いたあと、黒木は思ったより忙しい時間を過ごした。  まず到着が遅れたことを、千葉たちに詫びた。本来の予定では、昨日の夜にはたどり着いているはずだったからだ。大阪での寄り道、さらにここに来るまでの間にアメリカ兵に見つかったことを洗いざらい打ち明ける。千葉は呆れはしたが、すぐに夜間の下山に備えるべく、中山たちと一緒に山道に目印をつけに行った。  それからやっと、黒木は東の手を借りて、耳の包帯を取りかえた。  手当てが終わった後、黒木は東をねぎらった。 「田宮のこと、ご苦労だった」  千葉の口から、田宮正一が死んだことを聞かされていた。それは黒木にとって、予想外の朗報だった。用済みになった田宮の扱いに、頭を使う必要がなくなったからだ。  千葉の話では、田宮は誤って井戸に転落して死んだと言う。要は事故ということだが、黒木は内心、信じていない。おそらく、東が何らかの形で手を下したのだろうと思った。  しかし、この期に及んで深く詮索するつもりはなかった。  そして東は、黒木を前にしきりに落ち着かない様子を見せていた。 「…今夜のことで緊張しているのか?」  黒木の言葉に、東は無言で頷く。律儀にも、そばにあった藁半紙に〈緊張しています〉と書きつける。固い表情のまま、さらに鉛筆を動かす。 〈でも最後まで精一杯、僚機のつとめを果たします〉  読み終えた後、黒木は東の顔を見返す。緊張しているが、すでに決意をしっかり固めている。  明日の朝、死ぬ定めを受け入れている。  黒木は無言で目をそらした。  二機の「飛燕」が、千葉たちによって最高の状態に整備された。そのうちの一機は、かつて黒木が操縦していた機体だった。五式戦に換装された後、調布飛行場へ残してきた愛機は、敗戦間際にこの「観測所」へ運ばれるという数奇な運命をたどった。  見つけた時、かつての乗機の尾翼には「月と桜」の模様がそのまま残されていた。  黒木はあえて、それを消さなかった。「金本勇」を演じるために、「黒木栄也」につながる痕跡を周到につぶしてきた。しかし、最後の飛行だ。一つくらい、わがままを通しても許されるだろう。  そして、東が乗る予定の「飛燕」はあの笠倉孝曹長が多摩川上流に着水させた機だった。  思い返せば、笠倉は敵機から逃げ回るのがべらぼうに上手く、生還に貪欲な男だった。  その笠倉が乗っていた機体に、元僚機の東を搭乗させ、復路のない旅へ連れて行くーー。  死者に対してひどい冒涜だと、黒木は改めて気づいた。  生きていた頃の笠倉は、のらりくらりとした性格であったが、黒木の行いを知ったら墓の下でキレそうだ。たとえ、東自身が望み、笠倉の機体で飛ぶことに固執しているとしてもーー。  かつて死に急ぐ部下たちを、黒木は時に暴力を用いてまで止めようとした。  しかし、今は生きることを放棄して死を望む彼らを、己の計画のために利用している。  自分が、堕ちるところまで堕ちたことを黒木は自覚した。

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