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第25章⑪

 整備兵の一人がとっておいた最後のニワトリをつぶし、それでとり鍋を作って黒木と東にふるまった。最後の晩餐である。二人が食べきれなかった分は、千葉たちが食べた。  食事の後、黒木は千葉に言いつけて、出発予定時刻まで仮眠をとろうとした。  もっとも気がたかぶって、目は冴えている。  こんな時にも関わらず、黒木は切実な欲求を覚えた。  金本のぬくもりが欲しかった。いたわるように撫でる手が、時折、荒々しくなる腕が、身体の上にのしかかってくるあの重さが欲しくてたまらなかった。 「この身が死んで(イモミ チュッゴ)また死んで(チュッゴ)一百回(イベェックバン)死んだとしても(グッツォ チュッゴ)…ーー」  黒木は「丹心歌」を口ずさんだ。そのささやきに、唱和する声はない。  死ねば金本に会えるなどと、黒木は信じていない。人は死ねば終わりだ。  仮に、浄土や地獄があるとしてーー再会できる保証がどこにある?  だからこそ、二人そろって生きのびて、一緒に生き続けたかった。  出口のない思考の迷路の中で、黒木はいつの間にか寝入っていた。夢の中にすら、金本は現れなかった。  人が近づく気配で目を覚ます。千葉だった。 「…時間です」  黒木は一つうなずいて、何事もなかったかのように立ち上がった。  黒木と東は、この日のために用意した飛行服に手早く着替えた。飛行帽と眼鏡も装着し、手袋をはめる。身支度を終えると、黒木は僚機となる青年に言った。 「いくぞ。頼りにしている」  声を出せない東は、答える代わりに最大級の敬礼で返した。「飛燕」へ向かう黒木の背中を追う。その目がほんの一瞬逸れて、広大な洞窟の一角に向けられた。  …閉じ込められた部屋の中で、千代は真夜中にも関わらず起きていた。  扉の隙間から、遠ざかって行く東を眺めている。何もできない無力さが、千代の心にじわりと広がる。二年前のあの頃と同じだ。慰問のために訪れた飛行場で、千代は飛び立つ特攻隊員たちを見送ることしかできなかった。  そして、今も。結局、東を止めることは叶わなかった。   ーー本当に?  千代は迷った。自分のやろうとしていることが、何の意味もないだけでなく、自らの命をおびやかしかねないことだと、わかっている。  それでも、誰も疑念を抱くことなく、粛々と定められた運命のように進んでいく状況に腹を立てていた。邪魔してやりたい気持ちは、あまりに強すぎた。  沈黙をやぶり、千代は扉を叩いた。もう一度、今度は手が痛くなるほど強く、拳を扉に打ちつける。 「開けて…開けなさい!!」  去っていく東が、振り返った。終始、しかめつらだった顔が慌てているのを目にし、千代は不思議と胸がすいた。  しかし危うい優越感に浸ったのも、束の間。洞窟内に、轟音が響きわたった。  始動した『飛燕』の発動機の音だった。野外でさえ、耳をつんざく騒音は、洞窟の壁面に反響して、桁違いのけたたましさだ。千代の声なぞ、雷鳴の中にあるカマキリの羽ばたきに等しい。たちまち、かき消されて飲み込まれた。  黒木は操縦席の下に、ずた袋を放り込んだ。中身は、本当に個人的な品だ。最後まで手放さなかった母の着物。集めていた花の種や球根の一部。そして「はなどり隊」の部下たちーー工藤や米田の遺品となった、将棋の駒や野球ボール。  残していって朽ちるに任せるより、自分と一緒に燃やしてしまった方がスッキリする。  千葉の手を借りて、黒木は操縦席へ乗り込む。  送話器も兼ねた酸素マスクをつける寸前、千葉の方をふり仰いだ。反響するエンジンがやかましすぎて、目と鼻の先にいても、声を張り上げなければならなかった。 「世話になった。こんな場所までついてくる義理はなかったろうに。振り回して、悪かった」 「いえ。存外、楽しかったですよ」  千葉は目を細める。これで見納めになるであろう黒木の姿を、目に焼き付けるかのように。 「整備兵になって、よかったと思えたことが二つあります。一つはどんな形であれ、飛行機を飛ばすことに関われたこと。そしてもう一つは、あなたの機付きになれたことです。大変でしたけど、退屈と無縁な日々を送れました」  千葉はごく自然に、右手を差し出した。黒木は手袋を外し、節くれだった整備班長の手を握り返した。 「達者でな」 「…さようなら、黒木さん。あなたの旅が良いものになることを願っています」  千葉は最後に、敬礼した。黒木も返礼する。  別れは済んだ。出発の時間だった。 「車輪止め(チョーク)、外せ!!」  千葉の声を合図に、中山たちが一斉に動く。黒木は離陸のための定位置へ、飛燕をつけた。  洞窟内二百三十メートル。外に出て崖まで百五十メートル。合計三百八十メートルの滑走路は、着工時に予定していた八百メートルの半分以下の長さだ。本土決戦を見据えて作られた半格納式飛行場は、敗戦を迎えたことで完成することなく放棄された。  理論上、離陸はできるが、本当にギリギリの長さだ。失敗は許されない。機会はただ一度きりだ。  黒木は酸素マスクの下で息を吐き、スロットルを開いた。  「飛燕」が唸りを上げて、滑走路を走り始めた。黒木は前方を見すえつつ、計器に目を走らせる。機体が外に飛び出した二.五秒後、離陸できる速度に達した時、操縦桿を引いた。  一瞬、沈み込む感覚に襲われる。しかし、すぐに身体が操縦席に押しつけられる。  ジュラルミンの燕は、星のままたく空に魅入られるように、上へ上へと昇り始めた。

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