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第25章⑫

 山のふもとで「その音」を聞いた時、ソコワスキーは思わず頭上をふり仰いだ。  最初は、付近の飛行場から離陸した航空機が、たまたま近くを通りかかったのかと思った。しかし、すぐにその考えを捨てる。エンジン音は突然、しかも低空かつ至近距離で発生したからだ。  ようやく上がってきた半月が、飛び去っていく存在の輪郭を浮かび上がらせた。ほっそりとして、驚くほど均整のとれたシルエットだ。  それから三分と経たないうちに、さらにもう一機が姿を現した。  今度は先刻より、さらに多くの目撃者がいた。正体不明の航空機は山の中腹あたりから現れて、先に飛んでいった機体を追うように星空の彼方へ消えていく。  クリアウォーターと異なり、ソコワスキーは(いち)尉官として、戦場に立った経験があった。だから突如姿を現した二機の航空機が、爆撃機や輸送機などではなく、戦闘機だと正しく見抜いた。  そのせいで、余計に混乱した。あの山中に、アメリカ軍の飛行場があるという情報は一切、聞いていない。 ーー一体、あれは…?  先に真相をつかんだのは、日本人の方だった。  翌朝の山狩りのため、駆けつけていた猟師の一人が記憶をたどり思い当たった。 「ーーあの発動機の音は、陸軍の『飛燕』じゃなかと?」  その言葉はたちまち、複数の人間によって支持された。不明機が、日本の陸軍機だという情報が英訳され、ソコワスキーの耳に入ったのは、さらに十五分後のことだ。  聞いた瞬間、ソコワスキーの表情が凍りついた。それと裏腹に、情緒は即、沸点に達した。 「ーーああ、そういうことかよ! くそったれが!!」  突然、上がった罵声に、周囲の人間が何事かと振り返る。ソコワスキーは彼らの反応になど、目もくれなかった。  半白髪の少佐はようやく悟った。  「尽忠報国隊」がいかなる方法で天皇誘拐を目論んだのかーー答えは航空機だ。そのために、元パイロットである黒木や東を計画に引き入れたのだ、と。  ソコワスキーは自分の考えの正しさを、確信していた。しかし、彼はまだ知らない。一連の事件の首謀者こそ黒木栄也であり、田宮正一や「尽忠報国隊」は利用されただけであった、とーー。  兎にも角にも、少佐はやるべきことをやった。東京の対敵諜報部隊(C I C)本部と参謀第二部(G2)に連絡すべく、一番近い電話機へと走ったのである。  もっとも、その頃、東京のGHQは、ソコワスキー以上の大混乱に陥っている。  巡幸中のエンペラー(天皇)が、岩手県のK農場でテロリストの人質となったという報せが、マッカーサー元帥以下、関係各所の主要人物たちのもとに届いていたのである。  …千葉は洞窟の外に出て、北東の夜空を見上げた。  黒木に続いて、東も無事に離陸を果たした。実戦のカンを取り戻すために、二人とも地上で戦中のことを思い出しては、手足を動かしてイメージトレーニングに励んでいた。  飛び立った時の様子を見るに、おそらく大丈夫だと千葉は思った。黒木も東も、夜間飛行の経験は積んでいる。計器と星の位置を頼りに、増槽分の燃料を使って、ちゃんと岩手まで飛んでいける。  千葉は大きく息を吐いた。整備兵としてのーー千葉登志男軍曹としての仕事は終わった。  脱力感を伴う感慨にひたっていると、中山がやってきて隣に並んだ。 「行ってしまわれましたね」 「ああ、飛んでいったな」 「いいものを、見せてもらいました」  中山は微笑んで、目に溜まった涙をぬぐった。  黒木の誘いに、中山もまた応じた一人だった。黒木の目的が、金本の名誉を回復することだと知って、中山は手を貸すことを決めた。けれども、今になって自分がこの試みに参加した理由が、それだけでなかったことを自覚した。 「…俺はもう一度、『飛燕』が飛ぶところを見たかったんですね」  二年前、中山は調布飛行場で敗戦を迎え、残務処理のため一月ほど留まっていた。  その時、アメリカ軍の命令で、飛行場内に残っていた戦闘機の処分に携わった。  自分達が丹精込めて整備してきた飛行機を、一機残らず飛べないよう破壊しろとーー。  心をえぐられる日々で、中山は泣きたくなった。自分たちがやってきたことがーー金本たちが命をかけて戦ったことが、ことごとく否定されていく気がした。  だが、飛燕はもう一度、空へと舞い上がった。力強くも美しいその姿は、一生、忘れないだろう。  中山はまた涙を拭う。それから、気を取り直したように千葉を見上げた。 「黒木大尉が言ったように、アメリカ軍が来ます。そろそろ、トンズラする準備にかかりましょう」

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