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第25章⑬

 当初、千葉たち整備班は夜明けを待って下山する予定だった。しかし、黒木が最寄りの鉄道駅で米軍兵士に見つかっている。付近にはすでに、追いかけて来た米軍兵士や警官が大勢いるはずだ。『飛燕』がどこから飛び立ったか、目撃された可能性は高く、そうであれば夜明けを待たずして、千葉たちがいる場所へ登ってくるだろう。  夜間の下山は危険だが、夜陰に紛れて遠くまでいける。その利点を活かすべきだった。  二十分後、千葉たちは荷物をまとめて洞窟前に集合した。自分たちにつながりそうなものは、すべて荷物に入れるか、昼間のうちに埋めて処分している。  ただし大きな「危険人物」については、手つかずで残したままだった。 「…あの女性。本当に、ここに置いていっていいんでしょうか?」  中山は最後まで、千代を生かしておくことに懐疑的だった。田宮正一の妻だった女性は、千葉たちの顔を見ている。彼女の証言から捕まる危険は、今後、常につきまとう。そのことに、中山はわずらわしさと恐ろしさを感じていた。 「東さんと約束しただろう」  千葉は、かんで含めるように言う。 「彼女は無傷で解放する。約束は、守らないといけないよ」  そう返されれば、中山としても黙るほかなかった。  千葉は、集まった整備兵たちを眺めわたした。一応、最年長の身である。  締めの挨拶くらいは、しておくべきだろう。 「ーーそれでは。今日まで全員、ご苦労だった。残念ながら特別報奨は出ないが、飛んでいったお方から汽車賃だけはあずかっている。各自、それで家まで帰ってくれ」  整備班長の言葉に、一同が苦笑する。千葉はその様子を見て、朗らかに告げた。 「では、解散! おつかれさま」  金を渡された整備兵たちは、荷物を手に互いに別れを告げた。 「それじゃあな」 「しばらく連絡を断つが、忘れないでくれよ」 「うまく逃げ切ったら、二十年後くらいにまた集まろう」  ここからは、捕縛者たちの追跡をかわすために、単独か二人一組での行動となる。下山ルートもバラバラだ。万一、捕まることがあっても、口を閉ざしているよう、全員が取り決めを交わしていた。  山道を下り始めて中山は、名残を惜しむように一度だけ後ろを振り返った。すると、上の方に千葉がまだ立って、タバコを喫っていた。千葉は中山に気づいて、手を振る。中山も振り返し、一礼した。  それが、中山が千葉の姿を見る最後となった。  全員が退去したのを見届け、千葉は歩き出した。  山道ではなく、洞窟の中へ。放置されていた燃料で、再び電灯をつけることができた。  人の姿が消えた窟内では、ただ歩くだけでも音が大きく響く。千葉は、千代が閉じ込められている部屋まで行くと、扉の前にそっと鍵を置いた。  そのまま、立ち去ろうとした時、か細い声が彼を引き止めた。 「あの人は、もう戻ってこないの?」  誰のことを言っているのか、千葉にはすぐに察せられた。その上で、正直に告げた。 「…はい。二度と、ここに戻ってくることはないです」  千代から、非難の言葉はなかった。今さら、千葉を責めたところで何の意味もないと分かっているのだろう。その沈黙には、悲しみの混じった諦念が漂っていた。  それでも、 「まだ、生きているわ」  千代は震える声で言った。 「今、この瞬間はまだ生きているわ。生きているんだから…」  千葉は、扉ごしに黙礼した。千代は、飛び去っていった者のことを偲んでいる。  千葉に、その時間を邪魔する資格はなかった。  千葉は千代を置いて、再び外へ出た。車輪の跡が残る滑走路脇に、腰を下ろす。  そうやって星空を見上げながら、誰にも告げなかった「残務処理」を果たすため、時が来るのを静かに待った。  ソコワスキーたちが山を登り、「観測所」へ到着したのは、もう夜が明けようという時刻だった。警官隊は拳銃で、猟師たちは猟銃で、そしてアメリカ兵たちはガーランド銃で、全員が武装している。ソコワスキーも久方ぶりに、野戦用ヘルメットとガーランド銃で身を固めていた。  一行は、伏兵や罠を警戒しながら、獣道に等しい山道をわずかな灯りだけで登っていった。山上に何が待ちかまえているのか。正確に予想できる者は、誰もいなかった。  だから、先行する斥候隊が、だだっ広い広場のような空間を見つけ、そこに日本人の男が一人、座っていると報告してきた時には、全員が困惑した。ソコワスキーたちがとるべき行動に迷っている間に、正体不明の男ーー千葉の方が、来訪者たちの存在に気づいた。  待ちくたびれたのか、はたまた眠いのか。口に手を当ててあくびをすると、抵抗する意志はないと言わんばかりに、両手を上げた。 「聞いてください! ここには私以外に、人質の女性がいるだけです」  その言葉は、二世の語学兵によって英語に訳された。 「洞窟の中にいる彼女を、すぐに解放してあげてください。頼みますよ」  言い終えて間も無く、山道から十名ほどの警官が、拳銃をかまえながら近づいてきた。  蜂の巣にされても不思議ではない状況で、千葉は平然としている。撃たれたところでかまわないし、むしろそうなることを望んでいた。しかし、警官たちは不逞なテロリストに対して発砲することなく、「手を上げたまま、ひざまずけ!!」と言うだけだった。  千葉はあっけなく捕まり、手錠をかけられた。

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