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第26章㉔

 カトウは二十ミリ機関砲の発射ボタンを押した。  その瞬間、「首無し花嫁(ヘッドレス・ブライド)」号と飛燕との距離は千百メートル。さらに、互いに向かって飛んでいたため、毎秒約三百メートルずつ接近していた。  放たれた弾丸が、空を駆け抜ける。  そのまま払暁の名残をなぎ払うように、飛燕に吸い込まれていった。  着弾した時、ウィンズロウはすでに、飛燕の射線上から愛機を逃がしている。傾く視界の片隅で、白とオレンジの光が瞬く。  それは、飛燕の翼に反射した太陽光とーー燃料槽から漏れたガソリンに、引火して発せられた炎の色であった。    ……自分の機体が撃ち抜かれたと理解するまで、黒木は時間が必要だった。信じられないという思いと、左半身に走った激痛が反応を遅らせた。  二十ミリ機関砲の威力は絶大だ。かつてその一発は、B-29の頑強な胴体にさえ大穴を開けて、致命傷となるダメージを与えることができた。  B-29よりはるかに小さく、耐久性に乏しい飛燕が喰らえば、ひとたまりもなかった。  まして、人体をかすめたとなればーー。  裂けた左翼が、火炎を引きながら千切れるのを黒木は見た。そして、それを模すかのように、彼自身が体の一部を失っていた。  黒木は左手でスロットルをつかんでいた。命中した弾丸は、金属の部品も血の通った人体も区別しない。すべてを無慈悲に破壊して、吹き飛ばした。  黒木の左肩から先は、引きちぎられて消失していた。筋肉と骨が断ち切られたところから、雨漏りする水のように、血がとめどなくしたたり落ちる。致命傷だ。そして唯一の傷でもない。弾丸と機械の破片は飛行服をズタズタに切り裂き、いくつも空いた穴から血がにじみ出ていた。  即死するか、少なくとも失神してそのまま死に至って当然の傷だった。  だが、黒木はいまだ意識を保っていた。それどころか、この期に及んでなお、自身に傷を負わせた相手に、反撃しようとした。  カトウたちを葬り去らねばという、呪いにも似た執念にとらわれていた。  しかし、人間より先に飛燕の方が限界を迎えた。片方の翼を失い、火を噴きながら、落下を始める。  燃料は残り少なくなっていた。それでも、機体と搭乗員を火葬するには、十分な量だった。  かろうじて無事だった黒木の右手は、まだ操縦桿を握っている。だがその手も、機械油の飛沫を浴びている。侵入してきた炎から火の粉が飛ぶと、飛行手袋はたちまち燃え上がった。  黒木は絶叫した。腕を振るうが、炎はむしろ勢いづいて、服と皮膚の上を蛇のように這い上がってきた。  脱出できないまま、黒木は炎の彫像と化した。  機体はその間にも、大地へ向かって落ちていく。  火炎に包まれた黒木は、まもなく叫ぶのをやめた。有毒の煙と熱気で、口の中は焼け爛れていた。その頃には、長く黒木を支えてきた負の感情も、あらかた炎で焼きつくされていた。  残ったのは、虚しさだけだった。  死のふちで、とうとう黒木は気づいてしまった。  怒りも狂気も復讐心も、結局は金本のいない日々を埋めるため。その代替品に過ぎなかった。どれほどそれらに身を任せ、復讐を完遂させたとしても、はじめから得るものなんて、無かったのだとーー。  敗北感と惨めさが、燃える足元から押し寄せてくる。  この期に及んで、すがれるのはーー確かに存在した昔の思い出だけだった。  地獄でひと筋の蜘蛛の糸を求めるように、黒木は焼ける腕を頭上にかざした。 「ーーこの身が死んで、また死んで(イモミチュッゴチュッゴ)一百回、死んだとしても(イベェックバン グッツォ チュッゴ)……」  濁って、しゃがれた声で、黒木は「丹心歌」をうたう。 「白骨、塵となり(ペクコリチントテヨ)魂があるかないか分からないが(ノクシラドイッコオプコ)…」 ーー蘭洙、見てるか? 「主に捧げた一片の丹心は(ニムヒャンハン イルピョンタンシミヤ)決して変わることはない(カシルチュリイスリャ)ーー」 ーー俺の主はお前だ、蘭洙。だから、もう一度だけ俺のもとへ現れてくれ。  黒木の願いは、聞き届けられることはなかった。  炎はついに、その命を燃やし尽くし、熱と煙と共にどこかへ連れ去っていった。  片翼を失った飛燕は、山腹へ墜落した。墜落時の衝撃で黒木の亡骸は、原型もとどめぬ形で散り散りとなった。

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