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余話① 一九七五年十月
中華民国・台北市ーー。
指定されたホテルに至るまでの道で、灰邑勇 の乗ったタクシーは二度、検問に引っかかった。台北 は近年、発展目覚ましいと聞くが、市の中心地から遠ざかるにつれ、街灯は確実に数を減らす。日本の地方都市と比べても、夜はまだ暗い。
それでも、道端から出てきた歩哨たちを、車のヘッドライトの光がとらえた時、両手に構える小銃がはっきり見えた。
タクシーの運転手は後部座席を振り返り、灰邑と通訳に早口の日本語でまくし立てた。
「逆らうのは、ゼッタイにだめよ。大人しくしている。よいか?」
灰邑が答えるより先に、歩哨の一人が車のそばに近づいてきた。手にした小銃の銃口が、こちらに向けらているのを目にし、灰邑はさすがに恐ろしくなる。
しかしそのあとは、驚くほどスムーズにことは運んだ。
「乗っているのは、日本人か?」
「ええ、そうです」
運転手が中国語に切り替え、愛想よく答える。
「名前は?」
「え? あたしは李志輝ですが…」
「お前じゃない。客の日本人の方だ」
それを聞いた若い通訳が、急いで灰邑に尋ねた。
「先生…ご本名はなんでしたっけ?」
うかつにも、通訳は雇い主のパスポートに記された名前を失念していた。灰邑は言った。
「今村和時 だ」
名前を言った途端、歩哨はすぐに小銃の銃口を下げた。
「孫中校 (※中校はいわゆる中佐のこと)から、あなたがここを通るとうかがっております。どうぞ、お通りください」
検問が開く。タクシーは速やかに、そこを通過する。
しばらく走ったところで、運転手が安堵の息をついた。
「お客さん、作家だって言ってたよね。なんで軍の中校と知り合いなんです?」
灰邑はーー今村は、すぐに答えなかった。
これから会う相手との関係を、どう表現したものか迷う。戦友と言えるほど、関係は深くない。ただ、もう顔もおぼろげな一人の男のことが、頭に浮かんだ。
「…昔の仕事仲間が、親しくしていた相手だ」
「仕事仲間? お客さん、作家になる前はなんの仕事をしてたんです?」
運転手が言っているうちに、前方にまた検問が現れた。
小銃を持った歩哨が姿を見せる。運転手はそちらに気を取られ、直前に話していた雑談の内容をすぐに忘れてしまった。
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