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余話②
飛行兵としての今村少尉が終わって三十年。小説家「灰邑勇」が世に出て二十七年。
そしてーーあの事件が起こった夏から、二十八年二ヶ月が過ぎ去った。
…アメリカ人たちに拘束され、解放され、勤めていた建築事務所をクビになった後、今村は両親の暮らす八尾の家へ戻った。しばらくは何もする気が起きず、日々を無為に過ごした。
敗戦の直後と同じように。
それでもひと月が経つころ、今村は久しぶりに街へ出た。歩いても、もう汗ばむことのない季節になっている。家を出た時は散歩くらいの気持ちだったが、思いがけず遠出して、街中に一軒の本屋を見つけて入った。
数人の客がいる薄暗い店内をぶらぶらと、あてどなく彷徨う。そのうち、一冊の本が目に止まった。
『孤島の鬼 江戸川乱歩』
ーー江戸川乱歩の新作出たら、俺の墓に一冊供えてくれよーー
その瞬間、今村の心は、あの日の知覧飛行場へ引き戻された。
宇都木礼司少尉。小説家になりたかったのに、夢果たせず、沖縄近海に散った男。
宇都木は特攻機に乗せられる時、今村に向かって「代わってくれ」と叫んだ。その恐怖と絶望にゆがんだ顔を、今村はまだはっきりと覚えていた。
手に取った本はあいにく、二十年近く前に出版されたものだった。今村はそれを持って、店奥にいる店主にたずねた。
「江戸川乱歩の新作? うちには置いてないね。というか、乱歩はここしばらく小説は書いていなかったと思いますよ」
「そうか…」 今村は落胆した。
「で、お客さん。それ、買いますの?」
今村は少し迷って、結局、財布を取り出した。
家に帰る道すがら、宇都木の出身地はどこだったかと、今村は記憶を辿った。聞いた覚えはあるのに思い出せない。後で調べようと思いつつ、家に戻った今村は買った本を何気なく開いて、読み始めた。母親に呼ばれ、夕飯をとる間に一度、中断しただけで、一晩かけて一気に読んだ。
『孤島の鬼』は面白かった。ただ、主人公の造形はあまり気に食わなかった。
宇都木は、これを読んでいただろうか。多分、読んでいただろう。もしかなうなら、感想を聞きたかった。
次の日から数日、今村は宇都木の本籍地を調べることに費やした。
そのせいか。ふとした瞬間、宇都木のゆがんだ顔や叫び声が、目や耳に鮮明によみがえることが続いた。
そして、ふつふつと、忘れかけていた感情が蘇ってきた。
不条理への怒り。誰かに運命を決められて、抗うことも許されないやるせなさーー。
過去、特攻隊員となり、己の死を意識した時、今村は「はなどり隊」の記録を書き留め、忘れ去られることに抗った。
でも今は? 恨みや怒りをぶつけるべき相手がいるとすれば、それは特攻作戦を決めた軍の上層部となるだろう。けれども、もう日本の軍は解体されて存在しない。
さらに、今村はどうやっても復讐というものを肯定できなかった。黒木がその手で、小脇たちを殺めたことに深く傷ついていた。同じ道を選ぶことは、絶対にできなかった。
そんなもやもやした感情を抱えたまま、ある日、今村は文机の前に座りこんだ。手の届く先にちょうど、反古紙と鉛筆があった。紙を置き、鉛筆を握り、衝動的に思いつくままの言葉を書き連ねた。
〈…俺は死にたくない。あと一刻後には、この世と別離を告げる定めだと言うのに、まだぐずぐずと生への未練を、あいつらへの憤怒を抱き続けていた〉
その瞬間、澱 のような感情に一つの方向が与えられた。
続きを書くことを、今村は欲した。
小説という芸事を通じて、この感情を形にできるのではないか、と思った。
思いつくままに、今村は梗概を書きつけた。さすがに現代のままでは、感情に流されすぎてうまくまとまりそうにない。だから、舞台を二百年前に遡らせた。主人公を地方の侍にした。それから、家老の犯した罪を押しつけられ、腹を切る羽目になるという設定を作った。
細かい描写のために調べ物をし、今村は三週間ほどで話を書き上げた。
書き上げたはいいが、残念ながら出来の良し悪しは自分ではわからなかった。家族に見せる気もない。こんな陰鬱で救いのない話を書いたと知られたら、余計な心配をかけそうだ。
冷静になった今村は、いらなくなった本の外箱に原稿用紙を放り込み、押し入れにしまい込んだ。
もしも、「やまと新聞」の佐野敬記者が、今村の元を訪れなければ、陰鬱な侍の切腹話は、二度と日の目を見なかったに違いない。
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