536 / 540
余話⑥
かつて今村は、事件の生存者である東智 伍長を探し出して会おうとしたことがあった。
東は逮捕された後、最初はGHQに、占領が解けた後は日本の官憲によって厳重に隔離され、面会も制限された。佐野は何度も接触を試みたが一度も許可がおりることなく、終わった。
東は事件から十年が経った昭和三十二年、ひっそりと刑務所を出所した。しばらく、足取りは分からなかったが、今村が丹念に調べを進めた結果、五年後、福岡県に在住し、小さな飲食店を開いていることが判明した。
今村は何度か、はがきを出した。だが、返事が来ることは一度もなかった。しまいにしびれを切らし、ついに寝台列車に乗って福岡まで会いに行った。
訪れた住所にあったのは、『ひご笠』という居酒屋だった。午前中で、店は閉まっている。今村が裏手に回ると、一人の中年の女がちょうど物干し竿に、洗濯物を干しているところだった。
年は今村と同じか、少し上だろう。目鼻のはっきりした顔立ちをしており、割烹着姿とあいまって、婦人雑誌の表紙絵を思わせた。
女はしばらく洗濯物に集中していたが、見知らぬ男の姿に気づいて手を止めた。
今村は、丁寧に呼びかけた。
「すみません、東智さんはご在宅でしょうか?」
「…夫はまだ眠っています。夜遅い仕事なので。何か、ご用事ですか?」
その返答に、今村は少しばかり驚いた。東が結婚しているのもさることながら、相手が年上の美人というのは想定していなかった。
「申し遅れました。私、今村和時と申します。昔、東とは同じ飛行戦隊におりまして…」
そこまで話した時、女の表情が一変した。
手にしていた洗いたての半襟を放り出し、今村につめよった。
「帰ってください、今すぐに」
「いや、しかし…」
今村が抗弁しようとするのを制し、彼女は恐い顔で言った。
「あの事件の話を聞きに来たのでしょう? 何も話すことはありませんし、話すつもりもありません」
「せめて、東本人に会わせてもらえませんか? 会って、話したくないと言うなら、諦めますから…」
「いいから、帰ってください! お願いだから、あのひとを苦しめないで。事件のことも、戦争のことも、もう思い出させないで…」
その時、裏庭での騒ぎを聞きつけたのだろう。店の表から、つっかけを履いた男が飛び出してきた。首に走る傷跡を見るまでもなく、今村はそれが誰だか分かった。
東は妻のそばに行き、彼女を守るような姿勢で今村をにらんだ。そこで、東の方も、招かれざる客の正体に気づいたようだった。
気まずい空気の中、東が妻に向かって口を開く。
ひどくかすれて不明瞭な声だが、「ちよ」と今村には聞こえた。
店を指差す夫に、女は納得いかぬ顔で首を振る。東は仕方ないという風に、腰から帳面を取り出す。筆談が日常のことになっているのだろう。鉛筆で、サラサラと書きつけた。
〈遠方から来ていただいて、本当に申し訳なく思います。でも、何も話すつもりはありません。誰にも迷惑を、かけたくないので〉
今村は書きつけられた文字を読み、それから互いに寄り添うように立つ夫婦を見た。
自分自身を納得させるのは、簡単ではなかった。しかし、同じ戦争を生き抜いた身として、今村も思うところがあり、最後には引き下がる決断をくだした。
あれほど死ぬことに取り憑かれていた東が、今は一人の女性と生きようとしている。それを邪魔して、断ち切るような真似はしたくなかった。
「ーー帰るよ。寝ているところを起こして、すまなかった」
何も得られぬまま、今村はその日のうちに大阪へとんぼ帰りした。以来、東とは会っていない。ただ、自宅に帰ってすぐ、一通だけ手紙がきた。
そこには改めて、東本人と妻の千代をそっとしておいてほしいと、記されていた。
〈……今、自分は分不相応なほど、穏やかに暮らしております。その多くは、妻のおかげです。支えてくれる彼女のためにも、真っ当に生きていく所存です。だから、俺のことはもう捨て置いてください…ーー〉
ともだちにシェアしよう!

