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余話⑦

「…佐野という方が書いた本。実は私も昔、読みました」  孫日登は、今村が持参したボロボロの書物に目を向ける。ただ、読んだ理由までは明かさない。一介の新聞記者が、あの事件の全貌にどこまで迫っていたのか。孫の立場では、知らないまま済ますわけにいかなかった。 「東伍長は生きて、捕まったそうですね。彼には会ったんですか?」 「十年以上前に、一度だけ」 「…その時、何か、話はされたんですよね」 「いや。何も聞き出せなかった」 「そうですか」  孫は内心、安堵と感嘆の息をつく。  黒木に協力した者たちは、ひとつの取り決めを交わしていた。運悪く捕まっても、情報は一切漏らさない。特に、仲間に関わることは絶対に口を閉ざすとーー。  東はそれを、愚直に守り通したのだ。そうでなければ、孫を含む整備兵たちも、とうの昔に逮捕されていただろう。  東はかつての上官である今村にさえ、何も明かさなかった。  だから孫も、約束を守らなければならなかった。 「今村少尉どの。申し訳ないですが、私はお力になれません」 「中山…」 「ですが、代わりに一つ。私が経験した不思議の話を、語ってもよいでしょうか?」 「どんな話だ?」 「先ほど、私は日本を離れる前、千葉軍曹のご実家に行ったと言いましたが。実はその前に、もう一ヶ所、行った場所があったんです。ーー黒木大尉の乗った飛燕が、墜落した現場です」  驚愕する今村を前に、孫は紹興酒をひと口含み、語り出したーー。  孫は後に、『天皇暗殺』を入手して知ることになるのだが、佐野は事件からちょうど一年が経つ昭和二十三年八月九日、岩手におもむき、飛燕の墜落現場を訪れようと試みていた。佐野はまだ逃亡している人物の中に、黒木を偲んでやってくる人間がいるのではと考えたのだ。  しかし、佐野は目的地にたどり着くことはできなかった。同じ考えを抱いたGHQが、日本の警察を動かして、一帯を見張らせていたからだ。佐野は途中で拘束されたが、新聞記者と判明すると、その日のうちに釈放された。  そして結局、この日の警察の待ち伏せは空振りに終わった。  …佐野も、警官たちも、知る由もない。  さかのぼること十一日前の七月二十九日ーー旧暦の六月二十三日。  中山春雄の通名を持つ台湾人が、まさに黒木の死を悼むために墜落現場を訪れていた。  一九四〇年代、日本を含む東アジアの国々では、いまだ新暦と旧暦が併用されている。  特に台湾では、先祖祭祀を旧暦で行うのが一般的だった。だが、アメリカ人たちも、そして行事ごとを新暦で行うことに慣れていた佐野も、この日の存在を見落としていた。  七月二十九日早朝。中山は熊よけの鈴をつけた背嚢を背負い、人気のない山道をふもとから登り始めた。飛燕が墜落した場所は、地元の人間に聞いて把握している。迷っても引き返せるよう、木々に紐を結びながら、地図片手に、中山は獣道を進んだ。  登山を開始して、一時間ほどすると頭上で雲が広がり出した。  真夏の日差しを遮ってくれるのはありがたいが、雨になると厄介だ。そんな心配をしながら登り続け、目的地まであとわずかとなった時である。  岩肌と木々の緑の間に、中山は奇妙なものを見つけた。  それは赤い花だった。  中山は偶然、花の名前を知っていた。魯冰花(ルピナス)。畑に種を蒔いて、花が咲いたらそのままつぶし、肥料がわりに土に埋める植物だ。  花びらはやや暗いが鮮やかで、まるでたった今、流れたばかりの血のような色をしていた。  中山はその色の珍しさから、近づいて見てみた。  雨で土が崩れたのか、それとも最初からそうだったのか。魯冰花の根本に白っぽい何かが露出しており、そこに細かい根が絡みついていた。中山は最初、石かと思った。しかし凝視し、その正体に気づくと、思わずのけぞった。  それは骨髄を露出させた白骨だった。  しかもウサギや狐のような小動物のものではない。もっと大きなーー。  中山はごくりと唾を飲み込む。そして気づく。  赤く咲いているのは、一株の魯冰花だけではなかった。  あちらの木の根元に、こちらの岩の上に。  中山が名も知らぬ花々がーー浜木綿(はまゆう)、朝顔、半夏生(はんげしょう)、菖蒲、桔梗、匂蕃茉莉(においばんまつり)が、どれも鮮血色の花弁をつけ、自らの存在を声なき身で叫んでいた。  異様な光景に中山は恐怖を覚える。  しかし、震える足を叱咤して、花々の間を通り抜け、前へ進んだ。

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