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第5話

 なんとなく、毎日テキスト通りにしてみたら、一週間を過ぎたあたりから、中指が根元まで入るようになった。むず痒い。テキストによると、第二関節のあたりに良いポイントがあるらしい。本当か? 「っ、ァッ!」  自分の声じゃないような声が出て驚いた。家にひとりしかいなくて良かったと心から思う。指の腹で、コリコリした手応えのソコを撫でたら、体がビクつく。なんだ、ここ。 「ンッ、ぁ……、ん、んっ」  我慢しようとしても、勝手に口が開いて変な声が出てしまう。勃ち上がってる自身を扱きながらソコを撫でる。快感で、訳がわからない。先走り液とローションが混ざって、水音が耳をつく。何してるんだかわからないが、気持ち良い。 「ィッ、く……!」  ドロドロが手に纏わりつく。バスタオルを敷いていて良かった。汚したらマットごと買いなおす必要がある。一度イッたら頭が冷めてきた。私は朝から何をしてるんだか……。  せっかくだから、アナルプラグを入れてみるか。本当に入るのか? しかし、入らないと、セックスもできないだろうしな……。とりあえず試してみるか。  ――と、プラグを手に取ったところでスマホが鳴った。夏樹だ。 「はい、もしもし? どうかしましたか?」 「どうかしましたかじゃねぇよ! 今何処だ?」 「家ですけど、何か?」 「今日練習試合あるって、先週伝えてたろ!」 「そうでしたっけ?」 「そうだよ! 今から迎えに行くから、準備しとけよ! 十分ありゃ着くはずだから!」  切れた。カレンダーを見る。ああ、書いていたな、練習試合。プラグはまた今度にするか。夏樹が来る前に準備しておかないと。ボストンバッグにタオルやら水着やらを詰めていると、玄関から物音がした。足音が近づいてくる。ドアが勢いよく開かれる。 「ドアが壊れるからゆっくり開けてください」 「そりゃわりぃ! でもな、おまえが来ないからだぞ!」 「忘れてました」 「そんなことだと思――……何だこれ?」 「アナルプラグです」 「お、おう。そう、だけどさ……」 「入れときますか?」 「置いてけ! こんなん持ってったら、話がややこしくなっから!」 「わかりました」  荷物としての意味じゃなかったんだが……、まあ、良いか。夏樹は落ち着かない様子で私の部屋をうろうろしている。迷子の犬のような感じだ。  準備ができたので、ボストンバッグを担ぎ、部屋を出る。夏樹が「おれを置いてくな!」と言いながら小走りでついてきた。 「廊下は走るもんじゃないです」 「おまえが迎えに来たおれを置いてくからだろ!」 「放ってても、ついてくると思いました」 「あのなぁ、遅刻してんだから、もう少し急ごうとしてくれよ」 「遅刻しているなら、急いでも無駄では?」 「はいはい。そういう考え方な! わかった!」  何がわかったかわからないが、わかったなら良いか。夏樹の車に乗せてもらう。タバコのにおいが鼻をつく。灰皿に何本か突き刺さっていた。きっちり掃除して欲しい。信号待ちの間にも彼はタバコを咥えていた。窓を開けているが、煙が車内を舞う。視界が少し白い。 「げほっ、けほっ、けほっ」 「おっ、わりぃ! 窓開けててもだめか?」 「わざとやってます?」 「わざとじゃねぇよ! 神にも誓えるぞ! 癖なんだよ、信号待ちでタバコ吸いたくなるんだって」 「信号待ちの度に吸ってるんですか? コスパ悪過ぎませんか?」 「毎回じゃねぇから!」  火のついたままのタバコが灰皿に置かれる。私がタバコで咽せることをこいつは忘れているのか?  煙が出ているタバコを手に押しつけてやりたくなったが、我慢しよう。夏樹の車に乗ってるんだから、夏樹の好きにして良いはずだ。 「げほんっ、けほけほ、あの、後ろの窓も開いてくれませんか……? 煙が……」 「普通に泳いでっから強くなったかと思ってたんだけど、まだ煙で咽せるくらいなんだなぁ」 「やっぱりわざとか?」 「ひぇっ! 違う! 違うから! 今消すし、開けっから!」  車内を風が吹き抜けて心地良い。煙が吹き飛んだから、視界が良くなった。  車を十分ほど走らせて、辿り着いたのは隣町の大学だ。水泳の強豪校……だったと思う。 「おれは車を停めてくっから、先にプールに行っててくれ!」 「わかりました」  車を降りて、学園の案内板を見る。このまま真っ直ぐ行けば着くのか。 「おー! ヨユーだからって、遅刻してくんのかー?」 声の方角を向けば、ここの大学名の入ったジャージを着た男がいた。……誰だっけな? 「さっすが、夕顔(ゆうがお)小焼(こやけ)様だな!」 「誰ですか?」 「うぉおい! 俺を誰かわかってねぇのかよ!」  記憶を辿ってみるが、まったく心当たりがない。誰だこいつ。やかましい。全てがうるさい。 「俺は、阿武(あぶ)(ゆき)()! 前シーズンの記録会の時に、お前の隣のコースにいたんだぜ!」 「へえ、そうですか。それより、プールってこっちで合ってますか? というか、貴方、ここの生徒なら案内してください」 「遅刻しといて図々しいな!」 「そういう貴方も遅刻してるんじゃないんですか? プールにいないんだし」 「チゲぇよ! ()(おり)が心配だから迎えに来てくれって――もう! 来たじゃねぇかよ!」 「あり? 雪次も小焼も何でまだここにいるんだ?」  知り合いか? それなら、やかましいのも納得だ。夏樹も犬のようにキャンキャンやかましい時がある。 三人でプールへ向かった。阿武と夏樹は仲が良さそうに話をしている。……なんだか妙に腹が立つな。 「よーし、今日の試合で夕顔に勝ったら、特盛ネギラーメン奢ってくれるんだな!?」 「あはは、雪次じゃ小焼に勝てねぇって!」 「言ったなー!」  さっさと着替えて、準備して、泳ぐか。 「おっ? おい、伊織。夕顔行っちまったぜ?」 「ああ。小焼がひとりで勝手にすんのは、いつものことだから」  いつものこと。そう、いつものことだ。夏樹が誰かと親しそうに話すのも、いつものこと。……でも、なんだか妙にイライラする。何でだ?  泳いでる間は楽だ。誰とも話さないで済む。誰にも関わらないで済む。力が強いから、誰かを傷つけることもない。目つきが悪いから、誰かを怯えさせることもない。  ひとりでいられるから、楽。  元々は、肺が弱いから始めた水泳だった。母が何かで調べて、何かに勧められ、なんだかわからないが、スイミングスクールに通うことになった。ただ、それだけ。 「だー! 負けたー!」 「やっぱり速ぇなぁ夕顔」 「今のタイム見たか? うちのエースより速いぞ!」 「遅刻してきたってのに、あの泳ぎだから許されるんだろ、腹立つなー」 「天才ってのは、いるもんだ!」  うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。  声には出さない。母は言っていた。『他人に言った言葉は、いつか自分に返ってくる』と。  だから、声には出さない。私は、うるさくない。  周りがどれだけ騒いでも、興味が無い。どれだけ良い記録だろうが、どうでもいい。 「小焼、お疲れ! ほい、タオルとドリンク!」  ――どうでもいい、はずなんだ。 「へへっ、相変わらずおまえの泳ぎって綺麗だな。速いし、綺麗だし、最高だ」 「……夏樹。綺麗って、何ですか?」 「おっ? 綺麗は綺麗だよ。なんて言うかなぁ、こう、キラキラ、輝いて見えるんだ! 楽しそうでさ、見てて嬉しくなるんだよなぁ。楽しくなるんだ」 「ふふっ、なんですかそれ」  夏樹は見るからに驚いた顔をしていた。元から大きな目が更に大きく開いている。そういや、先日見た動物番組の芝犬がこんな顔をしていた。それにそっくりだ。 「おまえ……、笑うんだな……」 「は? 私だって笑いますよ。失礼ですね」 「それ、普段失礼なやつが言うセリフじゃねぇぞ!」  夏樹は笑っていた。へにゃっと笑う姿が、少し、可愛いと思った。手を伸ばして、頬を撫でてやる。 「おいおい、急に何すんだ? くすぐったいだろ」 「……」 「何か言ってくれよ!」 「……クールダウンしてきます」 「お、おう。行ってこい! って、まだだよ! 学校対抗フリーリレーあるから! おまえも出るの!」 「そうなんですか?」 「話聞いてなかったのかよ! まったくもう!」  夏樹は両手をぶんぶん振る。リレーなら、まだまだ先だろうか。そういうのは、最後にやるはずだから。 「夏樹。腹が減ったので、焼きそばパンとカレーパンとハムエッグトースト、それからサンドウィッチにホットドッグ、デザートに豆大福をお願いします。あと、飲み物はコーラの炭酸抜きで」 「多いんだよ!」 「覚えられないなら、スマホにメッセージで送りましょうか?」 「そういう意味じゃねぇんだよなぁ……。わかったわかった。買ってくるから、おまえはおとなしくここにいろよ! 他の部員の泳ぎを見とけ!」 「興味無いです」 「言うと思った」  手を振りながら、夏樹は私に背を向けた。他の部員の泳ぎを見とけと言われてもな……。興味が無い。  ああ、腹が減った……。早く帰ってきて欲しいな。

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