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第9話

「ああ、あれ、月じゃなかったな……」  丸く光っているものをよく見たら、どこかの店の看板だった。二十四時間営業しているのか? あんなに眩しいと電気代が気になる。  ボストンバッグを背負って、屈伸をする。……右足が、少し痛む。いつもより短めに走るか。  途中のコンビニで豆大福を買う。半額になっていたからラッキーだ。  公園を横切ったほうが近道になる。猫が集会をしているから邪魔しないように通らなかったが、今日は見かけないから行くか。 「人が来ちゃうからぁ!」 「大丈夫だって」  草むらから声が聞こえた。誰かいるのか? スマホが震えたので、立ち止まって確認する。  時刻は二十時を過ぎたところ。天気は晴れ。気温十五度。今夜は新月。……新月なら、月なんて見えなかったな。今日放送の猫番組、きちんと録画予約できているか気になってきた。  スポーツショップのメルマガなら、今読む必要はないか。スマホをジャージのポケットにしまう。 「ァンッ! あぁっ!」  エロ動画のような声が聞こえた。声のする草むらを覗く。女のスカートをたくし上げ、男が腰を振っていた。そんなに遅くもない時間に、野外プレイか。 だから、猫がいないのか。集会の場を奪われて猫が可哀想だ。関わるときっと面倒臭いことになるから、さっさと帰ろう。 「ただいま」  家に帰って、誰もいないが一応言う。習慣だから仕方ない。これで返事があれば泥棒がいるだろうし、逃げるはずだ。宅配ボックスに何か入っている。そういえば、電気マッサージ器を注文していたんだった。クチコミで上位の、安価だが良いやつらしい。試すのが楽しみだ。 ボストンバッグを開き、中身を洗濯機に入れる。今着ているものも全て脱いで放り込み、洗剤と柔軟剤をセットしてから、運転開始ボタンを押した。あとは任せておけば洗い終わる。  今日はシャワーで良いか。明日は銭湯に行くか。たまには、広い風呂に入りたい。サウナも良いな……。ジムに行っても良いが、トレーナーに絡まれるのが嫌だ。ひとりでトレーニングさせて欲しい。 浴室はほんのり暖かかった。顔を洗って、髪を洗って、体を洗う。  ……セックスの準備は、しなくて良いか。  アナルプラグも入れたことがないんだから、夏樹のお宝もまだ入らないはずだ。勃起した彼自身の太さなんて覚えていないが……たぶん、まだ無理だ。  尻に手を添わせる。孔に触れただけで体が少し震えた。  もしかして、ローションが無くても指が入るか? お湯で緩まっているのか? 恐る恐る挿してみる。 「っ、ぁ……!」  思わず声が出て驚いた。浴室内の姿見は湯気で曇っていてよく見えない。だが、何をしているかは自分がよくわかっているし、勃ってることもわかっている。 「ンッ、……、っ……んんっ……」  自身を扱く手が止まらない。孔に入れた指の先にコリコリしたものが当たる。ソコに触れる度に、変な快感が駆け巡っていく。  自分で触ってこんなことになるのに、夏樹に触られたら、どうなるんだ? こわい。 「ぁっ、ああっ……! あ……っ、ンくッ!」  頭が真っ白になって、急に力が抜けて床に倒れた。少し痛い。 騒がしい足音が聞こえてきた。夏樹が来たようだ。 「小焼ここか⁉ 今すげぇ音したけど、大丈夫か⁉ 頭打ってねぇか⁉」 「だい、じょうぶ……です…………」  息を整えないと。ドア一枚向こうにいる彼が心配している。 「そっか、大丈夫なら良いけど……」 「すみません。来て早々驚かせました」  息を呑む音がした。何かを言いかけて止まったようだ。夏樹が何か言いたい時は、なんとなくわかる。 「何か用ですか? そこから出てもらわないと私が出られないんですが」 「あ! わりぃ! 先におまえの部屋行ってっから! あ、あと、玄関のカギかけといたから!」 「わかりました」  吐き出された欲をシャワーで洗い流す。手は、綺麗なままだ。……準備しなくても、できるのか? 朝にしたからか? わからない。  体を拭き、キッチンで冷蔵庫から牛乳を取り出して、自分の部屋に戻る。テーブルにコーラと豆大福が置かれていた。 「ほい、コーラの炭酸抜き」 「風呂上がりは牛乳が良いです」 「なんだよそれぇ! せっかく、途中の自販機で買って、振りながら持ってきたのに」 「明日飲むので」  牛乳を一気に飲み干す。やっぱりビンの方が美味く感じる。紙パックよりも美味い気がする。不思議だ。  夏樹が買ってきたものと私が買ったもので豆大福が二つになったが、好物はいくらでも食べたいから、明日に一つ置いておく。 豆大福の袋を破り、ひとくち頬張る。唇に吸い付くような、すべすべした餅のもちもち感。丁寧につきあげないとできない触感だ。ふっくらした赤えんどう豆がほどよい硬さでアクセントになっている。そこに小豆のほどよい甘味と、ほのかな塩気がちょうどいい塩梅だ。コンビニスイーツとは思えないほど完成された味だ。これならリピートしても良い。まとめ買いしよう。  夏樹は落ち着きなくそわそわしている。まるで『待て』と言われた犬のようだ。 「私に何か言いたいことがあるのでは?」 「ふぇっ⁉」  目をじっと見ながら近づいたら離れられたので、更に近づいてみる。夏樹の背がベッドに当たる。 「あ、あのさ、……さっき、『月が綺麗ですね』って言ったろ……?」 「ああ。あれは、店の看板でした。よく光っていたので間違えたんです。今日は新月らしいですから、月は見えないですね」 「え?」 「何か?」 「……おれ、……おれには、月より小焼の方が綺麗に見えっから!」 「何言ってんだ変態」 「何で急に罵るんだよ!」  本当に何を言い出したんだ? 月と私を比べてどうする気だ? 比較対象がおかしいだろ。  ヘッドスペースに並べた文庫本が目につく。幼い頃に母から貰ったものだ。日本語の勉強になるから、と渡された。あれの作者は、千円札の人だとか父は言っていた。…………そういうことか。 「夏樹。月が出ていたら、星は見えにくいですよ」 「え、お、おう……? そりゃ、月の方が明るいもんな」 「まあ、お前ならそう言うでしょうね」 「何だよ急に!」 「何でもないです。それより、足を診てくれませんか? マッサージしてくれるんですよね?」 「でも、マット出てねぇぞ」 「ベッドじゃ駄目なんですか?」 「い、いや、駄目じゃねぇけど……」 「それならベッドで」  夏樹の横を通ってベッドにうつ伏せになる。少し軋む。夏樹もベッドに乗った。 「あのさ、部屋に入ってからずっと気になってたんだけど、あれは何だ?」 「首輪とハーネスです」 「そりゃ見たらわかるよ。ファッション用には見えねぇんだけど、犬か猫でも飼うのか?」 「夏樹用です」 「何でおれ用なんだよ⁉」 「ああいうの、好きだと思って」 「おまえ、おれのこと何だと思ってんだ!」 「超なんたらかんたらスポーツドクター」 「なんたらかんたらって……!」  と呟いた声は微かに震えていて、足に触れた夏樹の手が熱くなっている。背後にいるから顔は見えないが、きっと、大きな目が微かに濡れているはずだ。シャワールームで乳首を抓った時と同じように。 「せっかくですし、つけてみます?」 「えぇっ⁉」  振り向いて顔を見る。思ったとおり、夏樹の目は微かに濡れていた。ベッドから下り、棚に飾っていた首輪を手に取る。赤色の無地のシンプルな首輪だ。丈夫な合成革でできているから、ちょっとやそっと、引っ張ったくらいで千切れない。 「嫌ですか?」  目を見ながら尋ねれば、夏樹は視線を宙に彷徨わせてから「嫌じゃねぇけど」と、か細い声で答えた。 首に赤色がよく映える。無いはずの犬の耳が垂れているように幻視した。 「母に写真送りましょうか?」 「やめろ! おまえの母ちゃん、大量にチョーカー送ってきそうだから!」 「チョーカーはデザイン的にも優秀ですからね。首を綺麗に見せるように設計されているものもありますし、華奢さを表現するのにも使えます。あとは、支配欲を満たしたい人が相手に贈る物にも選ばれます」 「小焼は、何でおれにこれを……?」 「夏樹が好きそうだからですけど」  リードを引っ張る。夏樹が私に倒れ込む。彼の目から涙がひとすじこぼれ落ちた。密着してわかったが、彼の下半身が熱い。 「何で勃ってるんですか?」 「だ、だって、小焼がぁっ、痛ッ!」 「首輪つけられて興奮するなんて、変態ですね?」  ズボン越しに自身を撫でてやる。夏樹の腰が揺れている。リードを手に巻きつけ、更に引き寄せる。 「え、何すっ、ひぁァッ!」 「触る前から完全に勃ってましたよね? どうなってんですかお前」 「そんなこと言われても、ちょっ! ま、待って!」 「待てって、もう少し焦らして欲しいってことですか? 真性の変態だな、お前」 「ち、違うってぇ! ァッ! こ……やっ、んんん、んー!」  キャンキャンうるさいから、唇を塞いでおこう。リードを引っ張りつつ、噛みつくように口づける。 驚きで開いた口に舌を挿して、口内を舐める。辛い。それに苦い。タバコの味か、これは。 「ん、っ、……んっ、ぁ、あ……! こや、ちょっ、ちょっと、ちょっと待てって!」 「何ですか?」  繋がった銀糸を指で拭いつつ聞き返す。いったい何を言いたいんだ? 「おまえ、キス上手すぎねぇか?」 「言いたいことはそれだけか?」 「ひぃい! 何でそんなにノリノリなんだよ⁉」  ノリノリ? どういう意味だ。腹の虫が鳴いた。もう腹が減ってきた。豆大福を食べたばかりなのに。  それに……なんだか……体が熱い。 「夏樹。私にも、触ってください」 「お、おう。というか! 足! 右足を先に診る必要あっから!」 「どうでもいいです」 「良くねぇよ! おれは超スペシャルドリームハイスペックスポーツドクターだからな! 放っておけねぇよ!」 「……なんか、前と変わってませんか?」 「気分で変わるんだよ、気分で」 「それなら、超ド級の変態マゾヒストスポーツドクターのほうが似合いますよ」 「ひっどい肩書きにすんなよ!」  へにゃっと笑った顔が可愛らしい。本当に人懐こい犬っぽいやつだ。完全に勃っているのに、足を診たがるなんて、自分で焦らしプレイにしているのか? 変態だな。まあ、別に良いが。 「ぐえっ! 小焼、リード引っ張るなよ!」 「すみません。むしゃくしゃしてやりました。反省も後悔もしていません」 「なんだよその犯罪者みたいなセリフ。いだだっ! 引っ張るなって!」 「夏樹の反応が面白いから、つい」 「面白いからってやるなよ!」  夏樹は両手が空いているから自分で外せるんだが……、外そうとしないから、つけたままで良いのか。  足を診終わったらしく、彼は顔を上げる。 「軽い捻挫のようだから、しばらくキックの練習はやめておくか」 「わかりました」 「そんじゃ、おまえに触って良いんだよな?」 「触るのは良いですけど、まだアナルセックスは無理ですよ。プラグを入れてませんから」 「……うん。その基準はよくわかんねぇけど、それなら、プラグ入れてみるか?」 「夏樹にですか?」 「何でだよ⁉ おまえがネコなんだろ!」 「私は人間ですが?」  夏樹も犬っぽいが人間だしな。そういう意味か? しかし、私は猫が好きだが、猫っぽくはないと思う。ずっと寝ていないし、なにより、可愛さが無い。夏樹は困ったように眉を八の字に下げていた。 「あのな小焼、ネコってのは……、おまえが今頑張って開発してっけど、アナルにちんこ入れられる方のことを言うんだよ」 「はあ?」 「おまえ、店でこういうの買う時に、店員に何か言われたか?」 「タカかネコかどっちか聞かれました」 「タチかネコだからな、それ」 「は?」 「んー……、後で『タチ』『ネコ』を調べよう。なっ?」 「わかりました」  タカじゃなかったのか? あの店員の滑舌が悪いわけじゃなかったんだな……。 「そんじゃ、プラグ、入れてみっか?」 「はい」 「その前にこの首輪取ってくんねぇかな? 締まるんだよ」 「それは嫌です」 「なんで、ぐぇっ! 痛い! 痛いから引っ張るな、ってぇ! しかも何でマウント取ってんだよぉ!」 「むしゃくしゃしてやった」  リードを引っ張りつつ、夏樹の腰の上に乗った。尻に熱いモノが当たっている。  ……ああ、まだ、無理そうだな。

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