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第14話
「ふわぁふ……、よく寝たぁ」
伸びをしたら、景気良くバキバキッと、肩と首の関節が鳴った。カチンコチンに固まっちまったなぁ。おれもストレッチしねぇと。
室内を見回す。小焼に渡す道具が無くなっていた。同じゼミに所属している慎吾 が渡してくれたんだな。彼の姿が見えないのは……講義に行ったのか?
外したまんまの腕時計を左手首に巻きつける。時刻は九時十五分。一コマ目が始まっている。
「夏樹くんグッモーニン!」
「おう、おはよう」
毛先をゆるく巻いた女が近づいてくる。こちらも同じゼミに所属しているミラだ。アメリカからの留学生だが、日本語はペラペラ。緑色の目が綺麗なやつだ。
「ねえ、夕顔くんってゲイなの?」
「えっ、な、何だそれ⁉」
「ウワサになっていたよ。ほら、ここにも……」
ミラはスマホを見せてくれた。
画面に表示されたのは、いわゆる学校の裏サイト。他人への悪口や愚痴が延々とカキコミされていて、見ていて嫌な気分になる。
休講案内くらいはここで調べても良いが、おれはあんまり好きじゃない。
小焼はあの性格や態度だから、けっこう敵が多い。アンチって言うんだっけか。いつもなんか悪口を書かれているが、一番新しいスレッドには、ゲイだの同性愛者だの、色々カキコミがされている。ここ、学校関係者以外に報道機関の人がチェックしてっから、ネットニュースになるのも、時間の問題だ。削除依頼を出しても、すぐ反映されねぇだろうし。まず、管理人いんのか?
とりあえず、小焼が心配だ。変なことに巻き込まれたり、傷害事件起こしたりしてくれんなよ。
カキコミには、小焼のことしか書いていない。おれがパートナーってわかっていないのか、知ってて何も書いていないのか。それとも、小焼にだけ何か恨みがあるからか? ゼミ室の外から声が聞こえる。
「おい聞いたか⁉ 水泳部の夕顔ってゲイなんだってよ!」
「なにそれキモ!」
「あれだろ? ゲイって、ケツにちんこ突っ込むんだろ?」
「あのお高くとまった綺麗な顔にぶっかけてやりてぇー」
何でそんなにバカにしたような笑いができんだよ。人が誰を好きになろうが勝手だろうが。その好きな相手が、たまたま同性だっただけなんだ。それに、小焼は、優しいからおれに付き合ってくれてるだけで、ゲイではないと思う。色白のちっちゃくてカワイイ美少女が好きだから、違うはずだ。
もしくは、バイって言うほうが正しいはずだし。あいつら、講義内容を全然理解してねぇんだ。
でも、おれには否定できない。
このサイトに書かれたこと、全部を処理しきれない。
何でこんなことを書かれてんだ? おれと小焼の関係が誰かにバレたのか? それとも、身近にいるから妄想されたか?
それならもっと前から書かれてるはずだ。何でこのタイミングなんだよ? 誰かに、見られてたのか?
「夏樹くーん? ミラのスマホ返してー?」
「あ、あ、わりぃ!」
「夕顔くんのパートナーは、夏樹くんだよ。専属のスポーツドクターなんだから、パートナーのメンタルケアしなきゃ」
「あ、ああ。そうだな。うん」
小焼はこういうサイトを絶対見ないし、気にしないとは思うんだけど……、おれが気になってしまう。
あいつのメンタルケアは、なかなか難しい。真面目だから、なんでもバカ正直に受け止めちまう。そんで、ひとりで抱え込んじまう。おれに相談してくれたら良いのに。
とりあえず、小焼に伝えておかねぇと! 変なやつが群がったら困るはずだ!
万が一殴って傷害事件を起こしたら、記録会にも出られなくなる。あいつが、泳げなくなる。
この時間なら……、第二プールは実習で使ってっから、第一プールにいるかな。
ゼミ室を出て、広いキャンパスを歩く。
第一プールはゼミ室から徒歩十三分ぐらいだ。
「夏樹! 起きたのかー?」
「おっ、慎吾! 小焼にパドル渡してくれたんだよな? ありがとな!」
レジ袋を提げた慎吾に声をかけられたので近寄る。引き攣った顔をしていた。何でだ?
「お前って、ケツの穴にちんこ入れられて喘いでんだろ? きもちわりぃ」
「ふぇっ⁉」
「ないわー。男同士とかマジ無理」
慎吾は蔑んだような、嘲笑ったような顔で言う。何にも言い返せないのが悔しい。
おれはちんこ入れる側なんだけど、それを言っても墓穴にしかならない。
あと、そのバカにしたような目で少し興奮する自分に嫌気がさす。
あーもう、どうしよう。
慎吾に背を向けて、第一プールに向かって走る。
駄目だ。涙出てきた。泣いちゃ駄目だ。おれが泣いてどうすんだよ! 悔しいし、情けない。
第一プールに着いた。涙を拭きつつ、小焼がいるはずの場所へ向かう。水を掻く音がする。
キラキラが、舞っていた。
あんまりにも眩しくて、目を閉じた。
しなやかで、気高くて、美しくて、でもどこか危なげない。壊れそうな儚さがあるってのに、不思議な膜で守られているような、なんと喩 えたら良いかわからない。
おれにもう少し文才があれば、泳ぐ小焼の美しさを表現できるのに。
おれにもう少し勇気があれば、慎吾に上手く言い返せたのに。
ダメダメだ。おれって、何でこんなに頼りないんだろう……。
ひたひた……。足音が近付いてくる。顔を上げる。燃え上がるような赤い瞳と目が合った。
「おはようございます」
「ん。おはよう、小焼」
水が毛先から胸を滑って落ちていく。それさえも綺麗だ。そこらの芸術作品よりも美しいと思う。
不意に、頬を撫でられて驚いた。濡れた指がおれの目の下を拭う。
「泣いてたんですか?」
「あ、いや……。小焼があんまりにも美しいからさ、感動してさ」
「嘘だ。何か言いたいことがあるんでしょう?」
いつもそうだ。小焼は、おれが何か言いたい時に必ずこう言う。言わない、という選択肢もある。でも、伝えておかないと……、小焼は綺麗だから、狙われたら嫌だし……。
「実は――」
おれは、裏サイトのカキコミについて、慎吾に言われたこと、今までの状況を小焼に説明した。
「おまえなら、おれじゃなくても、すぐ、女のスポーツドクターを見つけられるだろうし……、パートナーを解消しても……」
これ以上話が広まってややこしくなる前に、抑えてやりたい。小焼がいつもどおりに、人目を気にせず泳げるようにしてやりたい。
「……夏樹はどうしたいんですか?」
「おれは……小焼がしたいように、してくれたら……良い…………」
「はぁ」
ため息を吐かれた。
やばい。また涙が出てきた。視界が滲む。小焼の顔が滲んで見える。
「泣かないでください。困ります」
「ぅ、ごめ、ん……」
悔しい。なんにもできなくて、悔しい。
選手のメンタルケア以前に、セルフメンタルケアできてない。
それが情けなくって、涙がぼろぼろ出てくる。
小焼はもう一度ため息を吐いた。それから、おれの腕を掴んで担ぎ上げる。
え、な、何、なに⁉
ばしゃああああん!
と、大きな水飛沫に包まれる。プールに投げ込まれたようだ。
おれ、泳げないのに!
体が沈む。人間の体は浮くようにできているって聞いてんのに、何故か沈む。立とうとしても、おれの身長だと水面に顔が出ない深さだ。やばい。溺れる。
水に揺れる視界の端にキラキラが見えた。赤い瞳が近づく。抱き寄せられて、そのまま唇を重ねられた。息が、できない。
「ここまで見事にカナヅチなのも凄いですね」
「ぅ、げほっ、だって……、浮かねぇんだもん……」
小焼はおれを抱えて立ち泳ぎしている。足痛いだろうに、何させてんだろ、おれ。
いやいや、そもそも、小焼がおれをプールに投げ込んでるんだ! 着替え持ってないのにずぶ濡れだし、腕時計とスマホが防水の恩恵を受けたぐらいだ。
「で、夏樹はどうしたいんですか?」
「どうしたいって……、おれは……小焼がどうしたいか……」
「私じゃなくて、お前がどうしたいかを聞いてるんです」
「がほっ! げふっ!」
水に沈められて苦しい。苦しいのに、気持ち良くなってきた。
おれは、小焼の側にいたい。キラキラ輝く小焼を見ていたい。だけど、変な噂が広まるのも嫌だ……。おれの所為 で、迷惑をかけたくない。でも、おれは……小焼が好きだから――……。
「小焼の側にいたいから、これからもパートナーでいさせてくれ!」
「よくできました。ご褒美あげましょうか」
頭を撫でられる。撫でてもらえて嬉しい。唇を重ねて、舌を絡ませる。気持ち良いけど、誰かに見られたら――と思った瞬間に水中だ。ただでさえ息が続かないってのに、こんなの、酸欠になる。頭がふあふあして気持ち良い。小焼の首に腕を回して、更に深く口付ける。体が熱くて、ゾクゾクする。
水面に出る。唇は離れた。呼吸が乱れる。
「しかしながら、色々言われたままなのは嫌ですね……」
「ぅんっ……、どうしよう、削除依頼出しとくか? 世間体 だけでもどうにかしねぇと……」
「……形だけでも、彼女がいれば良いのでは?」
女と交際しているってなれば、世間的に珍しい目で見られねぇかな? どうなんだろ?
噂好きの派手目な女子はカキコミ見てるだろうから……早々に彼女なんてできっかな? 腐女子なら寄ってくるかもしれねぇけど。
小焼はおれをプールサイドに置いて、頭にタオルを被せてくれた。どっかに電話してるな?
「もしもし? けいですか? 今朝のお礼のことなんですが――」
何でけいちゃんの連絡先知ってんだ? それに、今朝のお礼って何の話だ?
「私と、付き合ってくれませんか?」
「ふえぇええぇっ⁉」
「夏樹。うるさい」
「わ、わりぃ」
多分向こうも同じ反応したんだと思う。ガタガタ聞こえた。スマホが震える。ふゆだ。
「ふゆ、どうした?」
「い、いま、けいちゃんに、小焼ちゃんから電話が」
「あ、うん。小焼なら隣にいるよ……。今からアドレス送るから、察してくれ」
ふゆに裏サイトのアドレスを送る。通話が切れた。どうやら確認して察してくれたようだ。けいちゃんに説明してくれてんのかな。
「夏樹。色白の合法ロリ美少女が仮の彼女になりました」
「……おまえ、今度はロリコンって言われねぇか」
仮の彼女って言い方だから本当に付き合うつもりはないんだろうけど、複雑な気分になる。色白の合法ロリ美少女って言い方もなーんか、ヤバい気がするぞ。大丈夫かな……。
「後は、ふゆがなんとかするそうです。お前より役に立ちますね」
またキスをする。何でこんなにキスしてくれんだろ。気持ち良いし、嬉しいけど、誰かに見られたら、色白の美少女が彼女でも無駄だろ。
「レポートが終わったらご褒美欲しいんでしたよね?」
「お、おう。ご褒美くれるのか?」
小焼はおれの頭をタオルでわしゃわしゃ撫でてから、口を開いた。
「ここじゃなんですから、更衣室に行きましょう」
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