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第19話

 痛い。右足が痛い。腹が減った。  適当な菓子を口に入れる。甘い。噛む度に甘味が口いっぱいに広がる。しかし、満たされない。けっこう食べたはずなのに、空腹感が消えない。腹を撫でる。……さみしい。  あちらこちらに人がいる。広いキャンパスだから気にならないが、人が多いのは苦手だ。ひとりでいるほうがずっと楽だ。なのに、さみしい。 「夕顔くーん!」  手を振りながら駆け寄ってくる男がいる。見覚えはあるが、誰だか思い出せない。知り合いだとは思うんだが、名前がわからない。誰だったかな? 「次の講義一緒だったよね? 一緒に行こ!」 「……あの、すみませんが、どなたでしたっけ?」 「望月(もちづき)だよ。望月(もちづき)(かなで)。同じ水泳部なんだけど、ボクって、大会でも良い記録出せてないし、影も薄いから、覚えてないよね。あははは」  望月は頬を掻きながら苦笑いを浮かべていた。  ああ、そういえば、そんな名前の人もいたような気がする。夏樹が水泳部の自己タイムデータ処理をしている名簿に載っていたような……。おぼろげな記憶に、いたような、気がする。  なんだったか……、もうちょっとしたら思い出せそうな気がする。 「ボク、夕顔くんと共通点が見つかって嬉しいんだ。話しかけられて良かったぁ」 「共通点って何ですか?」 「ボクね、彼氏がいるんだぁ」 「はぁ」  彼氏がいるって言われてもな。私にどういう反応を求めているんだ?  気の利いた反応なんてできるはずがないし、興味が無い。だが、夏樹にまた迷惑をかけるわけにもいかないから、適当に話を合わせておかないとな……。チーム内に敵を作るなとかなんとか言われたような気がする。 「ボク、夕顔くんと同じ年だから、丁寧に話さなくて良いよぉ。えへへ」 「別に丁寧に話しているつもりはないんですけど」 「そうなの? だって、『私』って言うし、『ですます』使うから」 「……初めに覚えたのが、これだったんです。私はイギリス生まれですし」 「え!? 夕顔くんって、帰国子女なの? すごーい!」 「そんなに驚くことですか?」 「うんうん! だからそんなにきれいなんだね!」  勝手に盛り上がってるな。どうでもいい。さっさと何処かに行ってくれないだろうか。ひとりにしておいて欲しい。ベタベタ触られるのも嫌だ。腰を撫でられてゾワッとした悪寒が走った。触り方が、おかしい。  適当な相槌をつきつつ、教室へ向かって歩く。腹がよく鳴いている。カバンに手を入れる。白い飴が出てきた。これは薄荷だ。夏樹にやろう。他の物は、と……。 「自分がゲイってことを告白したら、皆ひいていくからさぁ、話せる人がいて嬉しいんだぁ」 「ゲイで何が悪いんですか?」 「ほんとにそれだよねぇ。男が男好きでも良いじゃんねぇ」 「いえ、私は彼女がいますし、女の方が好きですけど……」 「うっそぉ!?」 「嘘ではなく、本当に……。ほら、この子です」  ふゆから送られてきていた彼女の写真を見せる。ロリータ服でタピオカミルクティーを飲んでいる画像だった。美味しそうだな……後で何処に店があるか聞いておこう。写真の彼女が着ている服は、うちの母の個人ブランドだった。モデルをさせても良さそうだな……。この写真、母に転送しておくか。 「え、え、え、夕顔くん、この子何歳なの!? 大丈夫!?」 「けいは15歳か16歳だったような……。高校生ですよ」 「ひえぇ、犯罪だぁ」  犯罪? ……まあ、確かに未成年者だな。肌がもちもちしていて美味そうだな……。 「じゃ、じゃあさ、伊織くんとはどういう関係なの?」 「夏樹はパートナーです」 「それってどういう意味の?」 「どういう意味と言われましても……、超スーパーデラックスパーフェクトスポーツドクターって言っていたような……? また夏樹に聞いておきます」 「ううん。良い。もう良いよ……」  望月は半笑いになっている。何でだ? あと、何でさっきから私の腰をたまに撫でるんだ? すごくゾワゾワする。腹が減った。何か食べたい。 「っ……! さっきから何で触るんですか? やめてください」 「だって、夕顔くんすごいセクシーな顔で甘い息吐いてるから、触って欲しいのかなって思って――」 「は?」 「ひぃっ! ご、ごめん! もう触らないから! ごめんね!」  逃げていった。何だったんだろうか。  体が熱い。腹の奥が疼くように熱い。変にベタベタ触られたから、おかしい。痛い。さみしい。  このまま講義に出るのは、少しまずい。人に見られるのもまずい。テント状になった下腹部をカバンで隠しつつ、一番近いトイレの個室に入る。 「んっ」  声が出そうになったところを、ハンカチを咥えて抑える。こんなところで自慰するなんて、夏樹じゃあるまいし、変に興奮することはない。でも、ゾクゾクが止まらない。自身を扱く手が止まらなくなる。手に粘液が纏わりつく。駄目だ。腹が空いた。腹が減った。欲しい……。腹いっぱいに、欲しい。 「んくっ、ンッ……、……、ふっ、んん、ン」  こんなところで何をしてるんだ私は。  一度入れたら、意外とすんなり入るものだとは思っていた。が、ローションが無くても、すんなり指が入ると思わなかった。指の腹に少し硬い感覚がする。ここがきもちいい。  スマホが震えている。夏樹だ。講義が始まる前だってのに……。 「小焼ー。ちゃんと教室行ったか?」 「な、つき……、私、おかし、ぃ」 「どぇっ!? おまえ、何でそんなエロい声出してんだよ!? ああもう、今何処にいんだ?」 「A号館の、中央棟……っ、1階奥の、とこ。はや、……く。はやく、来て」 「な、なんていうか、おまえ、やっぱりエロいな」 「ばかっ!」 「わりぃわりぃ! すぐ行くから! そんまま待ってろよ」  通話が切れる。早く、来て欲しい。あつい。  指、2本入った……。きもちい。勝手に声が出そうになる。手が止まらない。これだと、夏樹のことばかり変態だって言えないな。腹の虫が鳴いた。はやく、欲しい。 「ぁっ、ん……! ん、ッ……い、ァ……ンンッ、ん」 「ちょちょちょ、小焼! けっこう声聞こえてっから! さすがにまずいから!」  夏樹だ。夏樹の声がする。カギを外して、人影を引き摺り込む。大きな目が更に大きく見開かれた。 「うわぁ……エロいな」 「ばか」 「ごめんごめん。で、小焼。おれはどうしたら良いんだ?」  後ろ手でカギをかけつつ、夏樹は笑った。尻尾が大きく揺れている。無いはずの、くるんと巻いた犬の尻尾が、見える。  頬を撫でて、そのまま噛みつくように口付けた。タバコを吸ってきたんだと思う。妙な味がする。薄荷の味もする。舌を絡めるだけで腰が疼く。早く欲しい。もっと、欲しい。 「な、つき……」 「トロトロになってんなぁ。どうしたんだよいったい」 「アッ、ん」 「小焼、声抑えて。おれの肩噛んでて良いから」  夏樹の肩に噛みつく。小さく「いってぇ」と聞こえた。指が中に入って、ゆっくりだが確実にイイトコロばかり擦る。きもちいい。 「っ、ん、ん、あ、あっ! はあ、あ…ッん!」 「ドスケベ過ぎねぇかおまえ」 「ばかぁっ!」 「あいあい。バカだよ。おまえのことが大好きなバカだ」 「ばかっ、ばか、ぁ……、あ、いっ、もっ出る!」 「え、ちょっ、待っ、痛い痛い痛い痛い痛い! 折れる! 背骨が折れる! 肩がもげるー!」  ぼたぼた……、床に白濁が散った。腕を解く。夏樹は涙目になっている。歯形が肩にくっきり浮かんでいた。微かに鉄の味がする。……血の味だ。 「おまえは力が強いんだから、もう少し加減してくれよ。抱き締められて背骨折られたら、いくらおれが超スペシシャルウルトラハイパースポーツドクターでも死ぬんだからな!」 「……すみません」 「まっ、そんなにしょげることでもねぇよ。これでも骨年齢は若いから丈夫なんだぞ! なんと、10代だ!」 「10歳から身長が伸びなかったんじゃないですか?」 「うぐっ、身長の話は傷つくからやめてくれ……」  そういえば身長を気にしていたな。  体の熱はまだ下がらない。まだ足りない。腹が減ったままだ。さみしい。  欲しい。腹いっぱいに、欲しい。 「夏樹……、さみしい……」 「お、おう。さみしいか。そっか」 「んっ、は、ぁっあ」 「でもなぁ、おれ今ゴム持ってねぇし、ローションも無いし……。小焼持ってるか?」 「そんなもん持ち歩くか!」 「だよなぁ。あ、指3本入ったぞ。わかっか?」 「わかるかばかぁっ!」 「あいあい。ごめんごめん」  いっぱい擦られてきもちい。おかしくなる。夏樹の肩に血が滲んでいる。痛がってるのに、離れられない。腰が勝手に揺れる。変な感じがする。欲しい。夏樹が、欲しい。 「そのままでいい」 「え、いや、そりゃ駄目だろ!」 「いいからっ、ん……! あ、いっ、れて」 「駄目だって。小焼の負担のが大きいんだ。いや、おれ、性病持ってねぇけどさ……、後始末とか色々あるだろうし……」  何でこんな時は聞いてくれないんだろうか。話しながらも指の腹でイイトコロを擦られて、視界が滲む。余裕なのが腹が立つ。肩を噛んでても、夏樹は痛がっているとはいえ、喜んでいるように見える。 「なつ、き……、なつきっ、……」 「ん。気持ち良いか? ここ好きだもんな」 「アッ、い、……、は、ぁ……っ、あ、んくっ」 「あいたたたっ!」  血のにおいがする。血の味がする。あとは、汗のにおいと、精液のにおい。  熱がおさまらない。もっと触ってもらいたい。不意に頭を優しく撫でられる。心地良い。擦りつく。タバコのにおいが鼻をつく。なんだか安心する。 「あはは、猫みてぇだな」 「むかつく」 「わりぃわりぃ。で、まだ足りない感じか?」 「……」 「おれは、小焼が『よし』って言うまで待つけど、小焼の体が大事だから、おまえが『よし』と言っても、きちんと準備できてない時は我慢する! だって、おまえの事が大好きだからな!」 「ばか」 「おう。いくらでも罵ってくれよ。それだけおれは興奮するぞ!」 「変態」 「よし、良い調子だ!」 「低身長」 「それは、傷つくからやめてくれ……。おれだって、あと30cmぐらい身長欲しかった」  困ったように眉が八の字に下がる。30cm足したら、私の身長も余裕で越える。今の身長差が逆転する。……身長の高いこいつが想像できない。  頭を撫でてみる。一瞬で嬉しそうに笑った。 「頭撫でてくれんの、好きだぞ」 「子供か」 「そう言うなよ。おれ、お兄ちゃんだから、そんなに褒められたことないんだ。できて当たり前って言うかさぁ」 「いや、お前とふゆの年の差いくつあると思ってんだ。褒められてるだろ」 「へへっ、バレたかぁ」 「はぁ」 「まっ、それはさておき……、落ち着いたなら、講義に行ったらどうだ? 出席点貰えるだろ?」 「夏樹は行かないんですか?」 「おれも行く! 出席点だけは、死んでも貰うように、ばっちゃんが言ってた!」 「どんなおばあさんですか」 「言ってみただけだ。真面目に受け取んなよ。ほら、おまえが汚した床ならおれが掃除しといてやっから」 「舐めて掃除するんですか?」 「おまえ、おれに便所の床を舐めさせようとすんなよ! ゾクゾクして、ちょっと出ただろ! おれ、ノーパンなんだからな!」 「しかも私のジャージですよ」 「そうなんだよー。四六時中一緒だな! 洗ってから返すけど、おれの匂いつけとくよ!」 「気持ち悪いですよ、変態」  乱れた衣類を正しつつ夏樹に返事をすれば、人懐こい犬のような笑みを浮かべていた。  胸が苦しいな……。何だろうか、この感じは。  夏樹が「早く行けよ」と言うので、後を任せてトイレを出た。少し遅刻しているが、まだ内容には追いつけるはずだ。  ……でも、まだ、さみしい。

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