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第23話

 高校生達の練習も終わって、皆帰っていった。  コーチ代としてギフト券を貰った。別にこんなもの用意してくれなくても良かったんだが……貰えるものは貰っておく。部員達でカンパして買ったんだと思う。 「で、資料は集まりました?」 「はぅっ!?」 「いちいち驚かないでくれますかね」 「ごめんなさいやの……。えっと、あの、小焼くんは、まだ泳ぐん?」 「はい。何か問題でも?」 「なんもないやの!」 「そうですか」  けいは目に涙を溜めている。泣かないでほしい。私が悪いように見える。  夏樹が隣で頬を掻きながら、困ったように眉を八の字に下げていた。ふゆにいたってはスマホを触り続けている。絵を描いているのか?  とりあえず、泳ぐか。指導だけでは物足りない。  ゴーグル越しの世界は少し暗く見える。だが、水面は高い天井から降り注ぐ照明で輝いて見えた。  スタート台を蹴って、指先から水に入る。  昔、綺麗なストリームラインを作れば、綺麗なスタートになる、と習った。  水の重みが心地良い。前に進むには、それほど力は要らない。力を抜いて、最大限にストロークを長く、最大限に止まっている時間を少なく。できるだけ水面近くでアップキック。息継ぎは片目だけ水面から出る程度。  ……繰り返し練習したら、できるようになること。才能でもなんでもない、誰でもできるはずだ。よっぽど運動音痴ではない限り。  どうやったら体が水底に沈んだままになるんだろうか。わからない。人間は浮くようにできているはずだ。肺が浮き袋になるはずだ。なのに、あいつは沈む。  首から前回りをして、壁を蹴ってターンする。手のひらを水底に向けて水を抑えれば、楽に方向が定まる、と習った。  やっぱり、ひとりが楽だ。  他人と関わると疲れる。ひとりで良い。泳いでいる間は静かで良い。大会でも、最終的に自分との戦いだ。より速く、泳ぐだけ。 「ほい、お疲れ」 「……ありがとうございます」  夏樹からタオルとドリンクを受け取る。ゴーグル越しでも、こいつは星が散ってそうなくらいに眩しく見える。いつもの、人懐こい犬のような笑みだ。なんとなく頭を撫でてやると更に嬉しそうにする。 「へへっ、撫でてくれんのか! 嬉しい!」 「ばかなんですか?」 「急に罵らないでくれよ。ラストのタイム、良かったぞ。ほら」  いつの間にタイム計測していたんだろうか。  夏樹は走り書きを見せてくれた。悪くないが、良いものでもない。自己ベストよりは遅い。  特に言葉を交わさず、夏樹にタオルとドリンクを渡す。 「クールダウンだな!」  言わなくてもわかるから、楽だ。  ……一緒にいて楽なのは、夏樹だけだな。たまにメンタルがグズグズになっているやつだが、優し過ぎるからだと思う。誰にでも優しくて、人懐こくて、あったかい。相手が欲しい言葉をそのまま鏡のように返す。……自分が傷ついても。  クールダウンを終えて、更衣室に向かう。夏樹もついてきた。まだ着替えてなかったから当然だな。 「ふゆ達は?」 「カラオケ行くってさ。けいちゃん、歌上手いらしいぞ。今度デートにでも行ったらどうだ?」 「ソフトクリームとフローズンが食べ放題なら考えておきます」 「おまえも歌えよ!」 「……デートにって言いましたが、あの子は仮の彼女ですよ」 「仮って言ってやんなよ。けいちゃんは、おまえのこと好きそうだぞ」 「好きとか嫌いとかどうでも良いです」  どうせ、離れていくんだから。  好きだから、と寄ってくるのは最初だけ。時間が経つにつれて、離れていく。  ひとりで良い。ひとりが楽だ。  誰も傷つけずに済む。誰も怯えさせずに済む。誰も泣かさずに済む。  どれだけ丁寧にしようとしても、逆効果だ。  何故か、離れていく。最後は、ひとり。  だから、ひとりで良い。 「おれは好きだぞ!」 「大声で言わないでください。耳が痛い」 「そりゃわりぃ。でもさ、おれは背が低いからな、おまえに聞こえるようにするには、大声になるんだよ」 「夏樹の声はよく通るから、背が低くても大声で言わなくて良いです」 「背が低いってところ強調して言わねぇでくれよ。傷つくぞ」 「お前が自分で言ったんでしょうが」 「そうだけどさ、自分で言うのと他人が言うのだと違うんだからな!」 「はあ」  夏樹が言わんとしていることは、なんとなくわかる。  腹の虫が鳴いた。腹が空いた。  ……なんだか、さみしい。 「小焼? どうかしたか?」 「……腹が空いた」 「あー……、夕飯にはちょっと早いけど、何か食って帰っんンッ!」  夏樹の口は苦い。タバコの味だ。喫煙室で吸ってきたんだと思う。舌を絡ませて、吸って、唾液を飲み込む。  熱を含んだ焦茶色の瞳が美味そうだ。舐めてみる。少し、塩辛い。あんまり美味くなかった。 「っ痛! 目を舐めんなよ! 細菌性結膜炎になったら笑えねぇだろ! おまえは笑わねぇけど! それに、小焼がもしも口唇ヘルペス持ってたら、最悪の場合、失明するんだからな……。おまえの泳いでる姿が見えなくなるのは嫌だ」 「すみません」 「今後、眼球舐めは禁止! 目、洗ってくる」  ……こういう時は、すごく「ああ、こいつ、本当に医者なんだな」と思う。超なんたらかんたらスポーツドクターとか言ってる時は「頭大丈夫か?」と思うが。  目を洗って夏樹は戻ってきた。 「よし! 眼球舐め以外なら大歓迎だ」 「……フェラしてください」 「え? おれがすんのか? でもさ、ここ、人来るだろ? しろって言うなら、すっけど……」  夏樹はコンクリートの床に座る。何でマットから下りたんだかわからない。犬のように脚に擦りつかれる。何でこいつ、嗅いでるんだ? 「ん。小焼の匂いがする」 「やっぱりしなくて良いです」 「どっちなんだよ!」 「……股間を嗅がれてそんなこと言われたら、寒気がしますよ。セクシー女優でもあるまいし」 「おまえこういうの好きそうだから言ってやったのに。じゃあ、さっさと着替えて、メシ食いに行くか」 「はい」  腹の虫が鳴いている。何か欲しい。早く、欲しい。腰がぞわぞわする。おかしい。さみしい。 「……小焼?」 「っ、なんでもない、です」 「何かおれに言いたいことあったんじゃねぇのか?」 「……さみしい」 「へ? さみしい? うーん……、今日と明日はずっと一緒だぞ!」  夏樹は満面の笑みだ。嬉しそうに笑っている。きっと、心から笑ってる。愛想笑いではなくて、楽しくて、嬉しくて、笑ってる。  手を伸ばす。まだ少し濡れた髪を撫でる。くすぐったそうに、へにゃっと笑う。ずっと笑ってる。  長い時間共にいて、笑っているのは、家族を除いて夏樹だけだ。他は、いつの間にか笑わなくなる。怒ったり、悲しんだり、私は他人を知らず知らずに傷つけて、不愉快にさせてしまっている。  そして、離れていく。だから、ひとり。  もう一度唇を軽く重ねて、腕を引いて捕まえる。彼は小さいから、簡単に腕の中におさまる。 「本当にどうしたんだ? 何かあったか? おれがタバコ吸いに行ってる間に何か言われたのか? 高校生に何か言われたのか?」 「なんでも、ないです」 「心配だから、何かあったら言ってくれよ! おれはおまえの超ベリベリハッピージーニアスなスポーツドクターなんだからな!」 「それ、毎回変わるんですか?」 「気分による!」  夏樹は、相変わらず夏樹だ。  ずっと昔から変わらない。ずっと同じ態度だ。  ぎゅっと抱き締める。「苦しいよ」と言われた。  甘露を煮詰めたような焦茶色の瞳が美味そうに見える。 「おれはおまえのパートナーだから、遠慮なく頼ってくれよ。おまえの夢、一緒に叶えよう!」 「夢なんて言いましたっけ?」 「言ってたよ! 昨日部屋掃除してたら懐かしい雑誌出てきてさ、おまえがインタビュー受けてたやつ!」  ああ、そんなこともあったな……。  あれは大会新記録を出した時だったか。記念撮影で夏樹がダブルピースしていたような記憶がある。 「おまえ、面倒臭がってテキトーに答えたんだろ? 何語なんだよって感じの文字が並んでたぞ!」 「いえ、真面目に答えたような気もします。気がするだけですが」 「ゼミ室に写真立てあるの知ってるだろ? インタビューと同じ文字が書いてあるメモが入っててさ……。誰も訳してないんだよなぁ。翻訳も反応してくんなくてさぁ」 「どんなものですか?」  夏樹はカバンからメモを取り出し、私に見せる。これは……私が書いた字だ。間違いない。  インタビューの内容も薄ぼんやり思い出してきた。 「小焼なら、わかるだろ?」 「夏樹もわかるはずですよ」 「それがさぁ、何で写真立てに入ってたかも、この言葉の意味も思い出せないんだ。頭打って記憶障害になっちまったみてぇで」 「いつ頭を?」 「おまえがシャワールームでキスしてくれた時」 「ああ……」 「だからさ、教えてくんねぇかな? これの意味」  夏樹は本当にわかっていないようだった。  メモに書かれた文字は、オランダ語だ。母方の父、私から見て祖父の母国語。  インタビューの内容は『どうして泳ぐのか? 誰の為に泳ぐのか?』だったような気がする。 「 Ik zal voor je zwemmen(私はお前の為に泳ぎます). Dus blijf alsjeblieft bij me(だから、私の側にいてください).」 「それ、そんな発音なのかー。で、意味は?」 「……教えません」 「何でだよ!?」 「忘れられたので」 「不慮の事故だからぁ! 原因おまえだし!」 「教えません。翻訳アプリと仲良くなってください」 「もー、わかったよ……」  今言うのは、あの時とは言葉の重みが違う。咄嗟に出た言葉とは訳が違う。  胸の辺りが痛くて、腹がさみしい。  欲しい。たくさん。いっぱい。夏樹が欲しい。夏樹に触りたい。 「ご褒美は、『おあずけ』で」 「『待て』だな。わかった。楽しみにしてる!」  尻尾を振っているように見える。頭を撫でる。嬉しそうだ。  ご褒美は、『おあずけ』。  夏樹の家に着いたら、何か考えておこう。

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