23 / 34
第23話
高校生達の練習も終わって、皆帰っていった。
コーチ代としてギフト券を貰った。別にこんなもの用意してくれなくても良かったんだが……貰えるものは貰っておく。部員達でカンパして買ったんだと思う。
「で、資料は集まりました?」
「はぅっ!?」
「いちいち驚かないでくれますかね」
「ごめんなさいやの……。えっと、あの、小焼くんは、まだ泳ぐん?」
「はい。何か問題でも?」
「なんもないやの!」
「そうですか」
けいは目に涙を溜めている。泣かないでほしい。私が悪いように見える。
夏樹が隣で頬を掻きながら、困ったように眉を八の字に下げていた。ふゆにいたってはスマホを触り続けている。絵を描いているのか?
とりあえず、泳ぐか。指導だけでは物足りない。
ゴーグル越しの世界は少し暗く見える。だが、水面は高い天井から降り注ぐ照明で輝いて見えた。
スタート台を蹴って、指先から水に入る。
昔、綺麗なストリームラインを作れば、綺麗なスタートになる、と習った。
水の重みが心地良い。前に進むには、それほど力は要らない。力を抜いて、最大限にストロークを長く、最大限に止まっている時間を少なく。できるだけ水面近くでアップキック。息継ぎは片目だけ水面から出る程度。
……繰り返し練習したら、できるようになること。才能でもなんでもない、誰でもできるはずだ。よっぽど運動音痴ではない限り。
どうやったら体が水底に沈んだままになるんだろうか。わからない。人間は浮くようにできているはずだ。肺が浮き袋になるはずだ。なのに、あいつは沈む。
首から前回りをして、壁を蹴ってターンする。手のひらを水底に向けて水を抑えれば、楽に方向が定まる、と習った。
やっぱり、ひとりが楽だ。
他人と関わると疲れる。ひとりで良い。泳いでいる間は静かで良い。大会でも、最終的に自分との戦いだ。より速く、泳ぐだけ。
「ほい、お疲れ」
「……ありがとうございます」
夏樹からタオルとドリンクを受け取る。ゴーグル越しでも、こいつは星が散ってそうなくらいに眩しく見える。いつもの、人懐こい犬のような笑みだ。なんとなく頭を撫でてやると更に嬉しそうにする。
「へへっ、撫でてくれんのか! 嬉しい!」
「ばかなんですか?」
「急に罵らないでくれよ。ラストのタイム、良かったぞ。ほら」
いつの間にタイム計測していたんだろうか。
夏樹は走り書きを見せてくれた。悪くないが、良いものでもない。自己ベストよりは遅い。
特に言葉を交わさず、夏樹にタオルとドリンクを渡す。
「クールダウンだな!」
言わなくてもわかるから、楽だ。
……一緒にいて楽なのは、夏樹だけだな。たまにメンタルがグズグズになっているやつだが、優し過ぎるからだと思う。誰にでも優しくて、人懐こくて、あったかい。相手が欲しい言葉をそのまま鏡のように返す。……自分が傷ついても。
クールダウンを終えて、更衣室に向かう。夏樹もついてきた。まだ着替えてなかったから当然だな。
「ふゆ達は?」
「カラオケ行くってさ。けいちゃん、歌上手いらしいぞ。今度デートにでも行ったらどうだ?」
「ソフトクリームとフローズンが食べ放題なら考えておきます」
「おまえも歌えよ!」
「……デートにって言いましたが、あの子は仮の彼女ですよ」
「仮って言ってやんなよ。けいちゃんは、おまえのこと好きそうだぞ」
「好きとか嫌いとかどうでも良いです」
どうせ、離れていくんだから。
好きだから、と寄ってくるのは最初だけ。時間が経つにつれて、離れていく。
ひとりで良い。ひとりが楽だ。
誰も傷つけずに済む。誰も怯えさせずに済む。誰も泣かさずに済む。
どれだけ丁寧にしようとしても、逆効果だ。
何故か、離れていく。最後は、ひとり。
だから、ひとりで良い。
「おれは好きだぞ!」
「大声で言わないでください。耳が痛い」
「そりゃわりぃ。でもさ、おれは背が低いからな、おまえに聞こえるようにするには、大声になるんだよ」
「夏樹の声はよく通るから、背が低くても大声で言わなくて良いです」
「背が低いってところ強調して言わねぇでくれよ。傷つくぞ」
「お前が自分で言ったんでしょうが」
「そうだけどさ、自分で言うのと他人が言うのだと違うんだからな!」
「はあ」
夏樹が言わんとしていることは、なんとなくわかる。
腹の虫が鳴いた。腹が空いた。
……なんだか、さみしい。
「小焼? どうかしたか?」
「……腹が空いた」
「あー……、夕飯にはちょっと早いけど、何か食って帰っんンッ!」
夏樹の口は苦い。タバコの味だ。喫煙室で吸ってきたんだと思う。舌を絡ませて、吸って、唾液を飲み込む。
熱を含んだ焦茶色の瞳が美味そうだ。舐めてみる。少し、塩辛い。あんまり美味くなかった。
「っ痛! 目を舐めんなよ! 細菌性結膜炎になったら笑えねぇだろ! おまえは笑わねぇけど! それに、小焼がもしも口唇ヘルペス持ってたら、最悪の場合、失明するんだからな……。おまえの泳いでる姿が見えなくなるのは嫌だ」
「すみません」
「今後、眼球舐めは禁止! 目、洗ってくる」
……こういう時は、すごく「ああ、こいつ、本当に医者なんだな」と思う。超なんたらかんたらスポーツドクターとか言ってる時は「頭大丈夫か?」と思うが。
目を洗って夏樹は戻ってきた。
「よし! 眼球舐め以外なら大歓迎だ」
「……フェラしてください」
「え? おれがすんのか? でもさ、ここ、人来るだろ? しろって言うなら、すっけど……」
夏樹はコンクリートの床に座る。何でマットから下りたんだかわからない。犬のように脚に擦りつかれる。何でこいつ、嗅いでるんだ?
「ん。小焼の匂いがする」
「やっぱりしなくて良いです」
「どっちなんだよ!」
「……股間を嗅がれてそんなこと言われたら、寒気がしますよ。セクシー女優でもあるまいし」
「おまえこういうの好きそうだから言ってやったのに。じゃあ、さっさと着替えて、メシ食いに行くか」
「はい」
腹の虫が鳴いている。何か欲しい。早く、欲しい。腰がぞわぞわする。おかしい。さみしい。
「……小焼?」
「っ、なんでもない、です」
「何かおれに言いたいことあったんじゃねぇのか?」
「……さみしい」
「へ? さみしい? うーん……、今日と明日はずっと一緒だぞ!」
夏樹は満面の笑みだ。嬉しそうに笑っている。きっと、心から笑ってる。愛想笑いではなくて、楽しくて、嬉しくて、笑ってる。
手を伸ばす。まだ少し濡れた髪を撫でる。くすぐったそうに、へにゃっと笑う。ずっと笑ってる。
長い時間共にいて、笑っているのは、家族を除いて夏樹だけだ。他は、いつの間にか笑わなくなる。怒ったり、悲しんだり、私は他人を知らず知らずに傷つけて、不愉快にさせてしまっている。
そして、離れていく。だから、ひとり。
もう一度唇を軽く重ねて、腕を引いて捕まえる。彼は小さいから、簡単に腕の中におさまる。
「本当にどうしたんだ? 何かあったか? おれがタバコ吸いに行ってる間に何か言われたのか? 高校生に何か言われたのか?」
「なんでも、ないです」
「心配だから、何かあったら言ってくれよ! おれはおまえの超ベリベリハッピージーニアスなスポーツドクターなんだからな!」
「それ、毎回変わるんですか?」
「気分による!」
夏樹は、相変わらず夏樹だ。
ずっと昔から変わらない。ずっと同じ態度だ。
ぎゅっと抱き締める。「苦しいよ」と言われた。
甘露を煮詰めたような焦茶色の瞳が美味そうに見える。
「おれはおまえのパートナーだから、遠慮なく頼ってくれよ。おまえの夢、一緒に叶えよう!」
「夢なんて言いましたっけ?」
「言ってたよ! 昨日部屋掃除してたら懐かしい雑誌出てきてさ、おまえがインタビュー受けてたやつ!」
ああ、そんなこともあったな……。
あれは大会新記録を出した時だったか。記念撮影で夏樹がダブルピースしていたような記憶がある。
「おまえ、面倒臭がってテキトーに答えたんだろ? 何語なんだよって感じの文字が並んでたぞ!」
「いえ、真面目に答えたような気もします。気がするだけですが」
「ゼミ室に写真立てあるの知ってるだろ? インタビューと同じ文字が書いてあるメモが入っててさ……。誰も訳してないんだよなぁ。翻訳も反応してくんなくてさぁ」
「どんなものですか?」
夏樹はカバンからメモを取り出し、私に見せる。これは……私が書いた字だ。間違いない。
インタビューの内容も薄ぼんやり思い出してきた。
「小焼なら、わかるだろ?」
「夏樹もわかるはずですよ」
「それがさぁ、何で写真立てに入ってたかも、この言葉の意味も思い出せないんだ。頭打って記憶障害になっちまったみてぇで」
「いつ頭を?」
「おまえがシャワールームでキスしてくれた時」
「ああ……」
「だからさ、教えてくんねぇかな? これの意味」
夏樹は本当にわかっていないようだった。
メモに書かれた文字は、オランダ語だ。母方の父、私から見て祖父の母国語。
インタビューの内容は『どうして泳ぐのか? 誰の為に泳ぐのか?』だったような気がする。
「 Ik zal voor je zwemmen . Dus blijf alsjeblieft bij me .」
「それ、そんな発音なのかー。で、意味は?」
「……教えません」
「何でだよ!?」
「忘れられたので」
「不慮の事故だからぁ! 原因おまえだし!」
「教えません。翻訳アプリと仲良くなってください」
「もー、わかったよ……」
今言うのは、あの時とは言葉の重みが違う。咄嗟に出た言葉とは訳が違う。
胸の辺りが痛くて、腹がさみしい。
欲しい。たくさん。いっぱい。夏樹が欲しい。夏樹に触りたい。
「ご褒美は、『おあずけ』で」
「『待て』だな。わかった。楽しみにしてる!」
尻尾を振っているように見える。頭を撫でる。嬉しそうだ。
ご褒美は、『おあずけ』。
夏樹の家に着いたら、何か考えておこう。
ともだちにシェアしよう!