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第27話
ピピピピピピピ……。
スマホのアラームを止める。時刻は午前3時。隣を見る。夏樹がいない。もう起きたのか?
「ふぎゃっ!」
「はい?」
夏樹は床に布団を敷いて寝ていたようだ。……やっぱり狭かったものな。シングルベッドだと2人で寝るのは厳しいか。
腹を踏んでしまったので、夏樹は涙目だ。
「おはようございます」
「うぅ、おはよ。痛ぇ……。内臓潰れてねぇかな……」
「そこまでやわじゃないでしょう?」
「ひっ、んっ!」
「変な声出さないでください」
「おまえが乳首触るからだろ!」
「お前が敏感過ぎるんでしょう」
こんなくだらない言い争いをしている場合でもない。横の部屋の2人は寝ていることだろうし、騒いでいたら起きてしまうはずだ。安眠の妨害は良くない。
腹を掻きながらあくびしている夏樹を置いて、部屋を出る。
顔を洗って歯磨きをして、ジョギングは……キャンプ場ですれば良いか。後ろから「置いてかないでくれよ」と声がかかる。洗面台は一つしかないのだから、順番待ちになると思うんだが、まあ、良いか。
「こひゃけぇ、にゃにくう?」
「歯磨き終わってから話してください」
何を言ってるんだかさっぱりわからない。夏樹の髪に妙な寝癖がついていたので、歯磨きをしている間に適当にセットしてやった。これでいつも通りの髪型だ。少しふわっとしたクセのある髪に、とんだ毛束が一本ある。何度なおしてもハネているので、この毛束はこういうものなんだと思う。
「おー! 髪が綺麗にまとまった! ありがとな!」
「どういたしまして。で、何を言ってたんですか?」
「朝メシ! 何食う?」
「……何があるんですか?」
「冷蔵庫の中に何かある! あ、トマトジュースが今日までだったかなぁ」
「はあ?」
とりあえずキッチンに行ってみるか。
冷蔵庫を開く。夏樹の言ったとおりに、トマトジュースの賞味期限が今日までだった。スライスチーズも今日までのようだ。ベーコンもか。……夏樹の母はけっこう大雑把だからな……。このまま腐らせるのも勿体無いな。「チーズなんて元から腐ってるようなもんだろ?」と言うような奴が私の後ろで「なんかあっかなぁ?」と言っているが。
「食パンならあったけど、焼くか?」
「お前が焼いたら大惨事になるんですよ……。ああ、『お座り』『待て』」
「あーい。座って待っとく」
ダイニングテーブルには4つのイスがつけられている。おそらく彼は家族間で決まっている定位置のイスに座って、へにゃっと笑った。
さて、『お座り』もさせたことなので、夏樹が持って来た食パンを焼いておくか。スライスチーズを乗せてトースターに放り込んでおいた。
冷凍室を開けば、ミックスベジタブルとアスパラガスがあった。どちらも中途半端な量になっている。使っておくか。
「夏樹。コンソメってありますか?」
「それなら左の棚んとこ」
「わかりました」
調味料類がごちゃっと入っている。さすが夏樹の母だな……。管理が大雑把すぎる。あの衛生管理の凄まじさが嘘のようだ。
調理器具はきちんと整頓されている。本当にどうなっているんだかわからない。差が激しいな。
トースターが鳴ったが、しばらくそのまま焼けるようにしておく。
ベーコンを細切り、アスパラガスを一口サイズに切る。夏樹が目を輝かせてこちらを見ていた。
「見てて楽しいですか?」
「ん。おまえを見てるの楽しい」
「そうですか」
気にしないでおくか。
ボウルにトマトジュースと顆粒コンソメ、ミックスベジタブル、アスパラガス、ベーコンを入れ、ラップをしてから電子レンジで加熱する。トマトの甘酸っぱい香りが漂い始める。腹の虫が唸るように鳴いた。腹が減ったな。
加熱が終われば、塩コショウを入れ、味を調える。もうすこし塩を入れてもいいか。……これぐらいか。皿に盛りつけてから、オリーブオイルを垂らしておいた。
トースターに放り込んでいたモノを取り出す。白い蒸気がうっすらあがっている。溶けたチーズに少し焦げ目がついていて、涎が出そうになった。
「どうぞ」
「おー! なんだこれ! すっげぇな!」
「ミネストローネとチーズトーストです」
夏樹は喜んでいるが手をつけようとしない。嫌いだったか? いや、そんなはずはなかったと思うんだが……、ああ、そうか。
「『よし』」
「いただきまーす!」
「いただきます」
どこまで私の言うことを聞くつもりなんだろうか?
勢いよく食べ始めた夏樹だったが、熱かったらしく「ぅわっつ!」と騒いでいる。やっぱりばかなのか? 面白いから良いか。
騒いでいる夏樹を無視して、食事を始める。レンジで簡単に作ったミネストローネにしては、けっこう良くできたほうだと思う。トマトジュースの酸味がコンソメでまろやかになっているし、甘みが引き出されている。ミックスベジタブルを使ったから食べ応えはあまりないが……そこは他人の家のものだからな。タマネギとブロッコリーがあればもっと甘くて美味くできたかもしれないな……。今度は家できちんと作ってみるか。
いつもより量が少ないのに、腹が満たされた。不思議だ。
「よし、腹ごしらえもできたし、釣りに行くか―!」
「そうですね」
夏樹が皿洗いをするそうなので、私は先に彼の部屋へ戻って着替える。ゴミ箱にくしゃくしゃに丸まったティッシュが増えている。……摘まみ上げて嗅いでみる。独特の濃いにおいがした。何故だか腹の奥が熱い。……さみしい。
「げっ! ゴミ箱見ないでくれよ」
「お前の宝剣、けっこうな頻度で抜かれてませんか?」
「だ、だって、シたくなるんだもん……」
「元気ですね」
「おう! おれのガラチンは今日も元気だぞ!」
「発音が違う。ガラティーンです」
「え? ガラチンじゃねぇの?」
「そう読むこともありますが……。いえ、今はそんなことはどうでも良いので、ガウェインに謝れ」
「あ! ガウェインのちんこって、ガラチンだな!」
「中学生かお前は!」
「痛っ! 叩くことねぇじゃんかぁ……」
これだと、そのうち円卓の騎士の剣を全部自分の股間のモノにしないか? いや、ロンゴミニアドのこともあったから、槍もあるか……。そんなことはどうでも良い。イギリス文学史で私の腹筋が痙攣する可能性が増えるだけだ。
そして、やっと家を出たのは4時を少し過ぎたぐらいだった。クーラーボックスもきちんと車につんだ。
「ライフジャケットは無いんですか?」
「あー、父ちゃんのやつだからおれには大きいんだよ。だから、無い」
「もしも夏樹が川に落ちたら誰が助けると思ってるんですか」
「小焼なら、助けてくれるだろ?」
「川の救助はプールと違って難しいんですよ」
「だよな。そういや、おまえってライフセーバーの講習受けてたよな?」
「あれは海ですよ。夏休み中に海水浴場でバイトしてたんですが、けっこう溺れるので、面倒臭かった」
「面倒臭いってなぁ……」
「どうして立入禁止区域に自己責任で入った奴らを助けなきゃいけないんですか。そのまま海の藻屑になってしまえば良い」
「過激なこと言うなよ。そう言いつつも助けたんだろ?」
「目の前で溺れられていたら、私が助けるしかないんですよ。助けたくなくても」
「……おまえ、何でライフセーバーの講習受けたんだよ」
「父が『将来役に立つかもしれないから』と言うので」
「そういうとこ真面目だよな、おまえの父ちゃん。そんで、きちんと実務経験積んでるおまえも真面目」
「そうですかね……」
そんな話をしながらも、スムーズに車は進んでいく。
窓は全開になっている。タバコの煙がすぐに風で吹きとんでいく。たまに私にふっかかるので、苦しくなるが、その度に夏樹が「わりぃ!」と言っていた。本当に悪いと思っているのかこいつ。
高速道路に乗って、最初のサービスエリアで小休憩。夏樹は「タバコ吸ってくる」と言って、喫煙所に行ったので、私は用を済ませてからドリンクの自動販売機を眺めていた。
キャンプ場に行くと言っていたから、現地でも買えるだろうが、道中でクーラーボックスのものは飲み干してしまいそうだしな……。夏樹にも何か買っといてやるか。甘い物は苦手なやつだから、ジュース系はやめておいて……、エナジードリンクで良いか? いや、あいつの宝剣が元気になるのも困るか。既に元気そうだったしな。無難にコーヒーで良いか。
缶コーヒーとペットボトルの緑茶を買って車に戻る。既に夏樹が戻っていた。
「コーヒー買ってきました」
「おっ。ありがとな! 眠気覚ましに良いやつだよこれ。レポートの時に飲んでた」
「そうですか」
夏樹はすぐにコーヒーを飲んでいた。嬉しそうにしているので、好みに合ったんだな。良かった。なんだかあったかい気持ちになった。
車は順調に進んでいく。朝日が昇り始めて清々しい朝だ。夏樹が少しそわそわし始めているのが気になる。
「タバコ吸いたいなら吸って良いですよ」
「い、いや、そうじゃなくて」
「何ですか?」
「すっげぇ、小便したい」
「コーヒー飲んだからでは?」
「おまえが買ってきたからだろ。あー、次のサービスエリアまでは――ひぇっ、20分ある……。しかもなんか渋滞してっし……」
どうも同じように朝釣りに行こうとしている渋滞にひっかかったようだ。突然足止めを食らった。牛が歩くよりも遅いペースだ。
夏樹は冷や汗をかいている。そろそろ限界っぽいな。ふと、空のペットボトルが目につく。
「夏樹、これ」
「え。な、何、何する気だよおまえ!?」
「窓閉めたほうが良いと思います」
窓が全て閉められる。これで車内の様子は見えづらいはずだ。前の車についてはバックミラーとドライブレコーダーの存在について考えつつ、シートベルトを外して、夏樹のズボンに手をかける。
「え、ま、まじ? まじで?」
「我慢してたら体に悪いですよ」
「そりゃそうだけど。いっ、あ」
「公園で漏らしてんですから、今更恥ずかしがる必要ないでしょうが」
ペットボトルを添えて、腹を押してやる。夏樹は体を丸める。ボトボト……、ペットボトルが生温かい液体で満たされていく。キャップを閉じて、足元に置き、夏樹のズボンを元通りにしてから、シートベルトをつけなおした。ちょうど渋滞が進むタイミングだった。
「すっきりできて良かったですね」
「ん。すっきりしたけど」
「何ですか?」
「クセになりそうだから、嫌だ……」
夏樹は目を潤ませていた。視線を落とす。ズボンがテント状に張っている。……興奮したのか、こいつ。
「興奮してんじゃないですよ、変態」
「だ、だって、小焼が……見てるから……ゾクゾクして、あー、もう、どうしよう、おれのガラチンが抜けそう!」
「ガラチンはガウェインのちんこじゃなかったんですか」
「ということは……、おれは、ガウェイン?」
「それは違うってはっきりわかります」
「あはは、冗談だよ。でも、勃った」
「……私は寝るので、着いたら起こしてください」
「えー、嘘だろ!? 一人で高速道路走るのつらいぞ!」
「じゃあ、何か面白い事言ってください」
「ふとんがふっとんだ」
「寝ます」
「起きてくれよ!」
「お前の宝剣が起きてるから良いでしょうが」
「良くねぇよ! おれのエクスカリバーは、おれ自身なんだからな!」
「ガラチンじゃなくなった……」
「え、やっぱりガラチンが良かったか?」
「どれでもアーサー王に謝れ」
またエクスカリバーに戻っているんだが、正直もうどれでも良いから、アーサー王に謝れと思う。全部性器にされたら名誉毀損罪に問われないか心配だ。
仕方ないから起きといてやるか……。
「しりとりしようぜ。小焼からな!」
「みかん」
「終わったじゃねぇか」
「あきかん」
「おい」
「おぼん」
「小焼。しりとりにしてくれよ。『ん』だと続けられねぇだろ」
「ん廻しがありますよ」
「何だよ? その、ん廻しって……」
「落語の演目です」
「知らねぇよ!」
「ンドレもあります」
「アンドレじゃねぇの?」
「違います。ンドレは、カメルーンの郷土料理です」
「わかんねぇよ……」
夏樹は困ったように眉を八の字に下げている。ンドレを知らないのか……。癖になるビターな味わいの葉の料理なんだが……。機会があれば作ってやろう。甘くないから夏樹でも食べられるはずだ。私はンドレの苦味とまろやかな舌触りがけっこう好きだ。バナナを揚げたものを付け合わせにしてあれば、更に美味い。腹の虫が鳴いた。
「また腹空かしてんのか?」
「夏樹といると腹がよく減る気がしてきました」
「あいあい。もうちょっとで着くから」
「着いても魚もバーベキューもまだ先ですよね?」
「おう。マジレスありがとな……」
キャンプ場の駐車場に着いたのは、夏樹の家を出て1時間半後だった。予定よりも少し遅れているからか、まばらに人がいる。
荷物を担ぐ。けっこう急な山道だな。バッグから首輪を取り出して、夏樹につけておいた。
「え、何で?」
「はぐれたらいけませんし。川に落ちると大変ですから」
「だからって、これは……」
「嫌ですか?」
「うぅ、嫌じゃねぇけどぉ……」
「では、このままで」
これで川に落ちたら首吊りになってしまうから、細心の注意が必要だな。
渓流に沿って歩いていく。夏樹の言っていたように桜の名所なんだと思う。既に葉っぱだけだが、これが桜の木だとはわかる。満開の桜を見てみたかったな……。
釣り客は各々自分の竿の先に注意が向いているはずなので、夏樹の首輪は気にされないはずだ。たまに目が合う人もいたが、すぐにサッと逸らされた。夏樹は人と目が合う度に、ビクッと跳ね上がる。浅い呼吸を繰り返している。大きな目に涙が溜まっている。ズボンはテント状になっていた。
「夏樹」
「小焼ぇ、おれ……」
「我慢できないんですか?」
「もっ、許してぇ」
「何を許して欲しいかわからないんですけど、泣かないでください」
仕方ないので首輪を外してやった。夏樹はその場に座る。もうここで良いか。魚もいそうだ。何という名前の魚かは知らないが、魚影が見える。他の釣り客からも距離がある。
鯉が釣れたら一番だが、食えたら何でも良いな。
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