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しょんぼりわんこ
どうしよう。
目の前のカリカリを見て考える。
なんだか、カリカリが食べれないんだ。おいしくないわけじゃないんだけど、どうしても食べられない。
残ったカリカリを袋に戻して、くしゃっとしてベッドの下に隠す。
そこにはいっぱいカリカリの袋が落ちていて。
オレ、どうしちゃったのかな。
なんだか怖くなって、ぶるって震える。
誰かに相談したほうがいいのかもしれないけど、でも、相談してどうなるんだろう。そもそも誰に?
家に帰されたりするのかな。父さんや母さんや豆柴のみんなのがっかりする顔を思い浮かべた。それは嫌だ。絶対嫌だ。
怖くて泣きたくなる。
平気なふりをしてなくちゃ。
オレは大きく息を吸って立ち上がる。
揃えた道具を持って、寮を出て、教室に向かった。
とぼとぼと廊下を歩いていると、ふわって嗅いだことのある匂いがする。はっとして目をあげると、廊下の向こうに影虎くん達がいる。
隠れたいなって思ったんだけど、もう三人は食堂でオレのとこには来ないし、クラスだって違うんだから、避けたりするのも変だよな。
オレが匂いに気がついたってことは、向こうだってオレがいるってわかってるはずなんだし。
普通に歩いて、普通に通り過ぎればいいんだ。
そう思うんだけど、気がついたらオレはちょろちょろと廊下の端に寄りながら歩いていて。
いや、それ、避けてるのばればれだろ。そう思うんだけど、どうしようもない。
そんなことをしてる間に、オレ達はすれ違って、影虎くんは挨拶もしてくれなくて。オレはそれがショックで。
ひくって声が漏れた。
目の前が真っ暗ってこういうこと言うのかな。
世の中しょうがないってことはいっぱいあるんだ。
いっぱいいっぱいあるんだから、我慢しないと。
ひっく、ひっく。
視界がゆらゆらと揺れて、ああ、泣いちゃってるんだって気がついた。
やだなあ。
こんなになるから、カリカリを食べなきゃいけないんだ。
お腹がすいているのがいけないんだ。そう思うんだけど。
影虎くんはもう、食堂で目の前で不機嫌そうな顔をすることはないし、オレには何味だかわからないあめを投げてくれることもない。肩によりかかった温かさを感じることも、かわいい豆だって抱きしめてくれることもないんだ。婚約だってきっとどうにかなっちゃってるし、面倒くさい神子で柴犬のオレなんかもういらないんだ。それに、それに……オレは……出来そこないだから。
ああ、やだやだ。なんで、オレ、こんな。
混乱した頭でひっくひっくすすりあげながら、ふらふらと廊下を歩く。急に後ろから腕をつかまれてびっくりした。ばらばらと落ちた教科書が床で音を立てる。その一冊が視界の隅で制服に包まれた足に当たる。
「あ、あ、すいません」
しゃがんで教科書を拾おうとして、腕がびくともしないことに気がついた。じりっとつむじのあたりに視線を感じる。
あれ、これ、覚えがあるんだけど。
おそるおそる目を上げると、黒に濃紺のかかった瞳と目があう。
なんかものすごくおっかない顔をしていて、びくんと身体が飛び跳ねた。ぐいって腕を持ち上げられて、ちょっと身体が浮いてしまう。
影虎くん、力持ちだなあ。
「痩せた」
唸るみたいに言われて、どきっとする。
「お、オレ……みそぎで……修行してて……」
おどおどとそう言うと視線を泳がせた。カリカリが食べられないなんてそんなこと言えっこない。
「禊のせいか」
「そ、そうだよ」
「こっちを見ろ」
逸らしたままだった視線を、ぎこちなく影虎くんに合わせる。
じりじりと焼くような視線がオレの顔をなぞる。ひくって喉がまた動いた。ぼろって零れた涙に、影虎くんの視線がますます厳しくなる。
「中虎、赤虎」
感情のない静かな声で影虎くんが囁く。
「ああ?」
「はい」
小さな声だったのに、二人が返事をした。
「俺はもう我慢がならん」
「おい、」
「待って」
「もともとが緑豆もやしだというのに、三キロは目方が落ちている」
「マジか」
「え?」
緑豆って言われた。
緑豆ってきれいなうぐいす色で、小さくて、可愛いよね。
後ろから脇に手を入れられて持ち上げられた。
「うわっ、かるっ」
中虎くんの声がして、乱暴に揺すぶられた。
「お前、飯食ってんのか?ああ?」
「あ、え、えと」
「貸して」
今度は赤虎くんが前から持ち上げた。腕を延ばしたままで上下に振られて、難しい顔をされた。
「確かに、これはちょっと……」
「お前ら、べたべたと触るな」
ぐるるって耳元で唸る声がして、後ろからもぎ取るみたいに抱きしめられた。背中から筋肉のついた体に抱きこまれて、ひくって泣き声が漏れる。
「ケチくさ」
「触りたいわけじゃないですけどね」
どういうことなんだろう、これ。よくわからない。
でも、影虎くんあったかい。
背中から伝わるぬくもりに、じわじわ視界が歪む。
「もう、俺のものにしてもいいだろう」
「それは……」
赤虎くんが言うと、影虎くんがなんかものすごく低くてどろっとした怖い声で言う。
「この俺が、これを、欲しがって、いるのだ」
何か言いたげに口を開いた赤虎くんが、口を閉じてふうとため息をついた。
「こうなったら、影虎は我慢しないだろうが」
中虎くんがそう言って、にやにやしながら赤虎くんの肩を叩いた。
「僕の根回しはなんだったんですか……」
「無駄だったってことだ」
その言葉にむっとした赤虎くんが中虎くんを睨む。
「ご苦労だった、赤虎。だが、オレは五体満足なこれが欲しい」
「どうするつもりなんですか?」
諦めたような顔をした赤虎くんがそういうと、くくっと後ろで笑う声がする。ぐるっと視界が回って、足が浮く。
え、え、え、こ、これ、お姫様だっこですよね。
あわわって両手をばたつかせると、ぐっと影虎くんの体がかがんで、顔がドアップになる。
「わああああぁ」
情けない声が口から漏れた。
「こういう時には首に抱きつくものだ。許婚者殿」
「まだ、お許しは出ていないでしょう」
「許しが出ないならば、略奪あるのみ」
「あーあ。そんな豆のどこがいいんだか」
え?え?どういうこと。いいなずけとか、こんやくしゃって、あれ?
あ、中虎くんが、オレのこと豆って言った!中虎くん、いい人!
豆はいいものですよ。
嬉しくてへらりと笑うと、歪んだ視界から涙がこぼれた。影虎くんの瞳が怒ったようにきつくなる。
「腕」
低い声にびくんとして、おどおどと影虎くんの首に手を回す。
「お前らは、飯のしたくをしろ」
言い捨ててずんずんと影虎くんが歩き出す。
「へーい」
「はい」
すれ違う生徒達がびっくりしてオレ達を見おくる。まっすぐ前を見ていた影虎くんがちらっとオレに視線を落として、ぼそっと言う。
「豆と呼ばれて喜ぶのは、俺だけにしろ」
「え?」
「ほかの奴に言われても、喜ぶな。いいからそうしろ」
ぷいってすねたみたいに前を向いて、影虎くんが足を速める。
どうして怒ってるのかなあ。
よくわかんないけど。
影虎くん、あったかいな。カリカリが食べれなくなって、ずっと寒くて、それで眠れなくて。だからこうして、あったかい影虎くん腕の中でゆらゆら揺れていると、眠くなってくる。
体から力が抜けたのかな。影虎くんがおれをゆすりあげて抱き寄せた。ほっぺが影虎くんの肩について、はっとして目を開ける。
「眠いなら寝ていろ」
ん。や。何寝てるんだ。オレ。
びくびくんと震えると、影虎くんが微笑んだ。
「おり、おろ、おろして」
じたっと暴れたオレを影虎くんが抱きなおす。
「断る」
こ、ことわる?断るって?え?
「甲斐影虎」
聞き覚えのある声にはっとして視線を巡らせると、柴陽先輩と柴田くんと柴犬のみんなが廊下を塞いでいる。
「それは、柴犬の神子だ。返して貰おう」
柴陽先輩がにっこりと笑うと手を差し伸べる。
その隣で柴田くんが、すごく怖い顔でオレを睨んでいた。
『────!』
柴田くんに言われた言葉が耳の奥に響く。
ぐうって喉の奥が熱くなって、気持ちが悪くなる。ふっふっって息が短くなって、影虎くんに抱きついている腕に力が入った。
『────!』
ああ、そんなこと言わないで。言わないでよ。
どうしようもなく悲しくなって、じわじわ涙が出てくる。
柴陽先輩のとこ、行かなきゃいけないのに、なのに。
オレ、やだ。こわい。助けて。
とんって背中が叩かれた。
その瞬間、オレは影虎くんに抱きついていた。温かい腕の中のいい匂いのする首に顔を押しつける。
勝ち誇ったように、影虎くんが喉の奥で唸る。
「これが何であろうとも、もう既に俺の婚約者。碌に飯も食わせずに痩せ衰えさせるならば、俺が貰って世話をする」
「それは困る」
ゆったりとした柴陽先輩の声に、ざわっと空気が揺れる。
あ、そうだった、いっぱい柴犬がいたんだった。柴陽先輩は、次の柴犬の頭領で、だから柴犬はみんな柴陽先輩の言う事を聞かなきゃいけなくて、きっと、影虎くんを襲うつもりなんだ。
影虎くんが怪我をするの、嫌だよ。
どうして、オレ、我慢が出来なかったのかな。
顔をあげて真っ直ぐ前を見てる影虎くんの顔を見る。影虎くんはすごく冷たく微笑んでいた。
「あの……オレ、帰る」
「ダメだ」
即答で言われてびっくりする。
「もう、貰い受けると決めた。貰えぬというのなら、奪い取るだけだ」
「だって」
きゅうって喉が閉まって、くーんって声が漏れる。その声に影虎くんが笑い声をあげた。
「そう簡単に譲るわけにはいかないんだ」
柴陽先輩の声が聞こえて、そっちを見ようとすると頭を胸に抱えられた。がるるるって威嚇する声がいっぱい聞こえる。
「力で来いと最初から言っている。正々堂々単騎でなどとケチくさいことは言わん。かかって来い。柴犬ども」
「何を生意気な!」
柴田くんの声。たって足音がする。
オレを抱いていたんじゃ避けられないよな。腕の中から出ようとするけど、しっかり押えられてて抜け出せない。
「かげとら……」
くん。そう言いかけたオレの反対側から気配がして、影虎くんの肩の上に誰かの手が乗った。そこを始点にして、何かが宙に舞いあがる。影がオレの上に落ちて、柴犬の群れの方に飛んだ。
うめく声、倒れる気配。
押さえつける腕が軽くなって、視線を巡らせると柴犬の中央にまだらの金髪の髪が見えて、まわりの柴犬を手当たりしだいに殴りつけている。
「な、中虎くん?」
「余計な手出しをするな」
「いやいやいや、飯の支度なんかよりこっちだろ!」
「お前の飯はまずいから、構わんが」
「ああ?なんだそれ、聞き捨てならなねえなあ」
「他人の見せ場を盗るからいかんのだ」
「豆にいいとこ見せようとしたんだな。くそ笑えるぞ」
中虎くんが近くの柴犬を蹴り飛ばす。影虎くんがふんと鼻を鳴らすと柴犬の群れの方にすたすたと近づいて行く。
「あぶ、あぶないよ」
「そうか?」
ひゅっと伸びてきた手を、横から中虎くんがつかんで反対側に投げた。壁に当たった柴犬がぎゃんと鳴くと床に崩れ落ちる。
また別な方向から突っ込んできた柴犬を影虎くんがひらりとかわして柴犬の群れの中から抜け出す。
後ろを向かずに歩く影虎くんの前に中虎くんが立って、廊下を塞いだ。
「武勲を示し、名をあげよ」
「御意」
ぱあんと中虎くんが手を打って、腰を落とす。
「ここは通さねえ」
中虎くんが吠えた。
柴犬達がびくって震える。柴陽先輩が涼しげな笑みを浮かべていた。その横で柴田くんが怒りにこぶしを握り締めている。
「行っちゃって、いいの?」
楽しそうに柴犬を殴りつける中虎くんを見ながらそう言うと、つまらなそうに影虎くんが言う。
「俺達は単騎で戦うほうが格段に強い。一緒の場で戦うと、このように狭い場所では同士討ちの懸念で実力が出せんのだ。それに、中虎が多少殴られたとしても、俺の見せ場を奪ったのだから、当然だ」
「で、でも」
「さっきのはよかったぞ」
「え?」
「影虎と呼んだだろう」
「は?」
「婚約者に敬称は、他人行儀だろう」
上からじろりと睨まれて、腕の中で体を小さくする。
つまり、その、呼び捨てで呼んで欲しいってこと?
「か、かげぇ……と……」
う、わ、呼び捨てとかムリムリ。
そんなオレを見て影虎くんは微笑んだ。
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