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シンデレラグレイ Ⅰ
その日、図書館なんかにいたのは、レポートの提出期限が迫っていたからだ。図書館の端っこに設置されているコピー機は、図書館に置いてある図書や論文をコピーするためのもので、それ以外のコピー機で著作権のこともあるので、コピーできないことになっているのだが、そんなことを律義に守っている学生は多分いなかった。考えながら逢坂が、コピー機まで辿り着くと、考えることは皆おんなじなのか、そこは学生で埋まっている。仕方なく、側のソファーに座ってどこか開くのを待っていた。大学は広いが、図書館は一ヶ所しかなく、コピー機は5台しかないから、テストが迫ると必然的にそうなる。しばらくそこで待っていると、一番奥のコピー機から白衣を着た女子学生が立ち去っていくのが見えた。逢坂は立ち上がって、他の学生に横入りされないように急ぎ足でコピー機に向かった。そしてコピー機の上の蓋をがばっと開けたところに、一枚紙が挟まっていた。
(・・・忘れ物?)
あぁ、多分、さっきの白衣を着ていた女子学生だと思いながらそれを持ち上げる。よく見えると一番上に名前が書いてあって、彼女のレポートのようだった。これは提出期限が迫っているものなのではないのか。白衣を着ているということは、きっと理系なのだろうが、多分テストや提出物の期限は、学部の違いでそんなに大きくは変わらないはずだ。コピーしているなら、一部本人が持っているのだろうけれど。考えながら、後ろを振り向くと、勿論だが彼女の姿はどこにも見当たらなかった。どうしようか、考えながら、とりあえず自分の持っていた本を手早くコピーする。名前が分かるなら、きっと届けたほうがはやい。きっと困っているだろうし、これから困るかもしれないし、考えながら逢坂は本のページを一枚捲った。
逢坂は経済学部で文系だったので、理系棟がある場所には、基本的に普段近づくことがなかった。用がないので近づく理由もなかった。理系棟の中は文系棟と造りがおんなじだったけれど、そこの学生たちは皆白衣を着ていて、何故か速足で逢坂の隣をどんどん通り過ぎてしまう。テスト期間ということもあるのかもしれないが、何故か廊下で雑談している学生がひとりもいないのはどうしてなのだろう。確かに理系の偏差値は、文系の偏差値とは似ても似つかないものだったが。誰か知っている人でもいればいいのだが、残念ながら理系の学生に知り合いはいなかった。知り合いが多い月森でも連れてくればよかったと、すっかり奥まで迷い込んでしまった逢坂は考えながら、手に持ったレポートの名前をもう一度見た。
(かのめ、あこ)
どうやら彼女はそういう名前らしい。変わった苗字だから、きっとすぐに見つかるだろうとタカをくくっていたのが間違いだったのだろうか。考えながら2階に上がる勇気がなかったので、1階をふらふらとしていると、目の前から女の子の集団がやってきた。彼女たちは今までの学生よりも、幾分足取りがゆっくりで、喋りながら笑いあっていたので、逢坂は少しだけほっとした。
「あの、ごめん」
「え?」
「かのめさんって知ってる?かのめ、あこさん。これ図書室のコピー機の中に入ってたんだけど」
レポートを見せると、ひとりの女の子がそれをまじまじと見てからぱっと顔を上げた。
「亜子ちゃんなら、ゼミ室にいるんじゃない?2階の305だっけ?」
「篠崎先生のとこでしょ、多分そう」
「ありがとう、助かった」
笑顔で手を振ると、彼女たちはにこにこと愛想よく笑って逢坂に向かって手を振り返した。なんとなくそういう顔が女の子にウケがいいのは分かっていた。彼女たちは運よく亜子と同じ学年だったらしい。居場所が分かれば、後は渡すだけだった。ゼミ室に部外者が勝手に入っていいのかよく分からなかったが、手渡すだけなら咎められないだろう。逢坂はさっきは登るのを躊躇った2階へ続く階段を上って、言われた通り305のプレートを探す。教授がいないといいなぁと思いながら、扉をノックした。
「はーい」
扉を開けて出てきたのは、亜子ではなく、男子学生だった。逢坂を見るときょとんとした顔をする。ここには文系の学生など訪ねてこないのだろう。なんとなく理由は想像できた。逢坂はさっき下でやったように、レポートを彼に見えるようにして、不審者ではないことをアピールする。
「これ届けに来たんだけど、かのめあこさんってここにいる?」
「・・・あー・・・これ明日提出のやつか。ちょっと待ってて。かのめー」
奥に向かって彼がそう呼ぶと、パソコンの前に座っていた黒髪の白衣を着た女子学生が立ち上がって振り返った。確かに、図書館でちらっと見たのは、あんな風貌だったと逢坂はおぼろげな記憶を思う。亜子はそのまますたすたと歩いてきて、逢坂の前に立った。
「これ、図書館のコピー機に忘れてたよ、かのめさん、のだよね?」
「・・・ありがとう、わざわざ届けてくれて」
「あ、まぁテスト期間だから、いるのかなと思って。じゃあ俺はこれで」
目の前であっさりと扉が閉まる。カラーやらパーマをしつくしている文系の女の子たちと違って、亜子の髪は真っ直ぐな黒髪だった。毎日鏡を見ている彼女らとも違って、化粧もあんまりしていないみたいで、近づいても化粧品の匂いがしないのが不思議だった。文系の女の子とはタイプが違うけれど、美人だったなと思いながら、何となく居づらい理系棟を脱出する。
(でもなんか、愛想なかったな)
考えながら、逢坂は一度だけ理系棟を振り返った。
「鹿野目って、そういうミスするんだな」
「ミスくらいするわ」
「だってお前、気味悪いくらいに完璧じゃん。聞いた?篠崎先生、次の学会お前連れてスイスまで行くらしいぜ」
「聞いてないんだけど、どうせ酔っぱらいの嘘でしょ」
届けてもらったレポートを見つめながら、谷塚の軽口にそう言うと、亜子はゼミ室を横切って、作業中のパソコンの前に戻った。別に勉強も学会も興味がなかった。昔から少しやれば大体何でもできたから、何かを考えないようにするために勉強していたら、いつの間にかこんなことになっていただけの話だ。考えながら口から溜め息が零れる。自分は全然完璧じゃないばかりか、欠陥だらけなのに、どうしてそんな風に言い切ってしまえるのだろう。睨みたくても谷塚はもう側にはいなかった。すると、隣のパソコンの前に座っていた鮎原が移動式の椅子を動かして、亜子の隣にぴたりとそれをくっつけて止まった。
「亜子ちゃん、亜子ちゃん」
「なに?」
「今のって、逢坂くんだよね」
「・・・おうさか?さぁ、名前まで聞いてないけど」
ちらりと隣の鮎原を見ると、鮎原の目は何故かきらきらと輝いていた。亜子は文系の学生の名前なんて、ひとりも知らなかった。そればかりか、理系の学生もゼミ生か、仲良くしている女子学生以外の名前は全然覚えていなかった。興味がないし知る必要がないと思っているので、紹介されても右から左へ流れていって、肝心の頭の中には全く残らない。そんな亜子を友達は笑って、頭がいいのに何でそんななのと言う。覚える気がそもそもないからだと思いながら、亜子は黙っている。
「そんなの司書に預けときゃいいのに、わざわざ届けてくれる逢坂くんってやっぱ親切だなぁ。かっこいいし」
「そうね。司書に預けときゃいいのに、馬鹿ね」
「馬鹿って、やめて亜子ちゃん!亜子ちゃんが言うとマジに聞こえるから!」
マジで言っているのだけれど、と思いながら、亜子は黙っていた。渡してくれた男子学生の顔を思い出そうとしたけれど、ぼんやりとしか浮かんでこなくて、鮎原が言うみたいにかっこいいかどうかは自分にはよく分からない。どうせ、兄以外の男は皆、自分にとっては敵でしかない。考えながら、また溜め息が出る。こんなことばかり考えているのに、自分は全然完璧なんかではない。
「でもさ、でもさー、逢坂くんってかっこいんだけど、あれなんだよねー」
「・・・ちょっと鮎原うるさいから静かにしてくれる?」
「うるさいってひどいー!亜子ちゃんがまたいじめるぅ!」
「大きな声出さないでよ、迷惑でしょ」
ただでさえテスト前で皆ピリピリしているのに、と思いながら、鮎原を見ると、全く懲りてない表情で、何故かにっこりと笑われた。それに眉間にしわを寄せていると、鮎原がずいっと体を近づけてきて、亜子の耳元に唇を近づけた。思わず身を引こうとすると、鮎原に肩を掴まれる。
「逢坂くんって男の人が好きなんだって」
「・・・え?」
ぱっと亜子の肩を離した鮎原は、自分の椅子に戻って、にこにこ顔で驚いた様子の亜子を眺めている。そんな風に驚く亜子が貴重なのだろう。鮎原の顔は何故かすごく満足そうだった。
「・・・嘘でしょ?また変な噂なんでしょ」
「嘘じゃないもーん、本人がそう言ってるんだって。逢坂くんかっこいいし優しいのに残念―」
「・・・―――」
そう言って、きっと大した興味もないのに唇を尖らせる鮎原の横顔を見ながら、亜子はこういう時にふさわしい言葉を考えていた。勿論、兄の性的嗜好が、兄だけのものではないことは分かっているつもりだったけれど、亜子はこれまで兄と同じ性的嗜好を持つ人間に出会ったことがなかった。八代は別だ。八代はノーマルだからだ。堂嶋もそうだ。考えていると、息が苦しくなってきて、亜子は立ち上がってゼミ室から出て行った。後ろで鮎原が自分を呼ぶ声がしたけれど、聞こえなかったふりをする。扉の前で、深く呼吸をして息を整える。目を瞑って亜子は必死に、レポートを届けてくれた彼の顔を思い出そうとした。
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