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シンデレラグレイ Ⅱ

お昼時のカフェテリアは混んでいる。ご飯を食べる場所が学食か、カフェテリアしかないからだ。それかコンビニで買ってそのへんで食べる選択肢しかない。時間があれば、学校外に食べに行ってもいいのだが、大体誰かが面倒臭がり、学内で済ませることが多かった。テスト期間も終わって、後は何件かレポートを提出すればよかった。けれど、その幾つかのレポートにほとんど手を付けていない逢坂は、早く帰ってレポートを仕上げなければいけないのに、柴田から今日はやく上がれそうだから部屋に来てもいいと、昼過ぎにメールが入っていて、レポートのことなど忘れて勝手に浮かれている。 「しずかー、今回もノートありがと。しずかのノートのおかげで、俺、経営学なんとかなりそう」 「そう思うんなら、真面目にノートとりゃいいじゃん。なんで心知真面目に講義出てんのにノート取らないの?」 「あそこの教授、出席厳しいんだよねー、寝てても怒られないのに」 「何のために出席してるんだよ、寝るなよ」 「伊原っちなんて出席してもないじゃん。もう絶対落としたよ、あれ」 「いい、俺は大体色仕掛けで何とかする」 「50オーバーのおじさんを色仕掛けでどうするんだよ」 あははと月森が笑う。いつもの光景だった。 「ちょっといいかしら」 その時、後ろからそう声を掛けられて、逢坂は椅子に座ったまま声がしたほうを振り向いた。同じテーブルに座っていた月森も伊原も喋るのを止めて、同じ方向を見ている。そこには見知らぬ女の子がひとり立っていた。女の子なら伊原に用かと思ったが、女の子は真っ直ぐ逢坂を見たまま、すたすたとこちらに近づいてきた。余りにも揺るぎない視線だった、混んでいるから、食べ終わったならテーブルを貸せと言われるのかと思った。そういうことは、時々ここではよく起こった。 「逢坂くん」 「あ、俺?」 そして案の定、彼女は逢坂の名前を呼んだ。 「この間はどうもありがとう、あなたのおかげでとても助かったわ」 「この間・・・?」 「ちょっと話がしたいのだけど、今いいかしら」 「・・・あー・・・」 この間とは一体何のことだろう、逢坂は立ち上がって彼女の顔をまじまじと見たけれど、全然記憶になくて自分でもびっくりしていた。恨みを買っているわけではなく、感謝されているのが、せめてもの救いだった。しかし彼女の真摯な瞳に、覚えていないとも言えずに、ちらりと月森と伊原のことを見やると、彼らはそこで興味津々の顔をして見守っていたので、多分知らないのだろうということは想像がついた。諦めて、逢坂は本人に何の話をしているのか分からないと、正直に聞こうと思って彼女に向き直った時だった。後ろで誰かが立ち上がる気配がした。なんとなく嫌な予感がしながら、逢坂はもう一度視線を向ける。 「鹿野目、逢坂を逆ナンか?お前いつからそんな大胆な女になったんだ?見直したぞ」 「・・・いはらっち・・・?」 振り向くと立っていたのは伊原だった。もしかしたら伊原の女絡みなのだろうか、それにしても自分が全然認識していないのに、なぜ巻き込まれているのだろうと、逢坂は少しうんざりしながらもう一度彼女に視線を向けた。彼女はそこで伊原を真っ直ぐ見ていた。確かに、伊原が好きそうな、と言っても彼に好みなどあってないようなものだが、綺麗な整った顔をしている。 「あなた、誰なの。私は逢坂くんに用があるのだけど」 「・・・え?」 「流石、鹿野目。俺相手に生意気なところは相変わらずだな」 「だから私はあなたのことは知らないんだけど」 「馬鹿か、この学校で俺を知らないなんてモグリか?」 「あー・・・もしかして、鹿野目亜子ちゃん?」 ひとりだけ座って状況を見守っていた月森が、急に合点がいったようにそう言い出して、逢坂はそこでようやく図書館での一件を思い出していた。一瞬のことだったから、あの後すぐに忘れてしまったけれど、確かレポートの名前は鹿野目亜子と書いてあったような気がする。珍しい苗字だと思ったから、彼女の顔は覚えていなかったけれど、名前は憶えていた。 「うちの学校の美人は大体食った伊原が、まだ手を付けてない鹿野目ちゃん、じゃない?」 「・・・なにそれ」 「俺は美人の顔と名前は大体覚えている」 「威張らなくていいです。その記憶力もっと勉学に生かせよ」 だから彼女は知らなくて、伊原は彼女のことを知っているのかとやっと理解が至ったが、そんなことは別に逢坂にとってはどうでもよかった。亜子のほうに再び向き直ると、彼女はそこでじっと逢坂を見つめていた。レポートの彼女で、感謝されているのは分かったけれど、一体彼女がこんなところまで自分を探しに来た理由は何だろうか。逢坂には心当たりが全くなかった。 「えーっと、俺に用なんだよね。なに?」 「ちょっと話がしたいんだけど、できればふたりで。もっと静かなところで」 「オイ、鹿野目、お前デートに誘うのにもうちょっと言い方はないのかよ、そんなんじゃ逢坂はついていかねぇぞ」 「ちょっと伊原っちうるさい、静かにして」 振り返って伊原を睨んでも、伊原はどこ吹く風で全く懲りた様子がない。月森は座ったまま困ったような顔をして笑っている。 「えっと、亜子ちゃん?俺、今日はもうテストがないから別に時間は開いてるんだけど・・・えーっと夜は行くとこがあるから無理で・・・だから今からなら別にいいんだけど」 「いいわ、私も今からなら何もないから。学内は煩いから外に出ても構わない?」 「オイ、逢坂。お前夜ダメってどうせ柴田さんだろ、女とデートした後によく会いに行けるな。うわきもの」 「・・・もうほんとうるさいってば!いいだろ、別に!浮気じゃないし!」 「鹿野目、お前にいいことを教えてやる」 睨んでも、もう伊原がその口を止めることはなかった。それどころか、伊原はすたすたとテーブルから離れて亜子に近寄ると、その耳元に唇を寄せた。亜子が体を引く前に、その腕を掴んで止める。見知らぬ、といっても伊原からは一方的に認知しているようだったが、亜子にとっては見知らぬ男であるのに、そんな風に女の子相手に簡単に触れてしまうことができるのも、きっとそれが伊原だからなのだろう。目の前で一方的に物理的な距離を詰める伊原を見ながら、助けたほうがいいのだろうと思いながら、逢坂はぼんやりそんなことを考えていた。しかし伊原がそこで亜子に囁いたことで、逢坂はまたその顔色を変える羽目になる。 「逢坂のことなんか好きになったって勝算はないぜ、こいつは男が好きなんだから」 「・・・ちょっと伊原っち何言って・・・―――!」 逢坂は慌てて、伊原の腕を思わず掴んで引っ張っていた。思ったよりもあっさりと伊原は亜子を離して、後ろ向きに二三歩下がって、ふたりの間にはまた物理的な距離ができる。逢坂は顔が赤くなったのを自覚しながら、伊原の腕を掴んだ手に意図的に力を込めた。別に隠していないけれど、だからと言って大声で言いながら歩いて回るものでもない。それにその可能性は低いけれど、柴田に何かしらの形で迷惑をかけることになるかもしれない、サエのように。考えながら、きっと痛いと言いたいのだろう、目の前で振り返って眉間にしわを刻む伊原の腕を、逢坂はその段になってようやく離した。 「―――知ってるわ」 「え?」 しかし、それを聞いた亜子の表情は変わらずに、それどころか、彼女は小さい声でそう呟いた。そうしてまたしっかりとした目で逢坂のことを射抜いてくる。この子は一体何を目的にして、自分に会いに来たのだろう。逢坂はそれを見ながら少しだけゾッとした。

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