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シンデレラグレイ Ⅲ

お昼時のカフェテリアは人で混み合っていて煩かったし、何より伊原に邪魔をされてできる話もできそうになかったので、亜子の提案通り、学校を出たところのカフェに入ることにした。そこにも勿論学生は沢山いたものの、一般のお客もいるせいか、学内よりは皆比較的静かで大人しくしている。逢坂はカフェオレを適当に頼んで、空いているソファー席に座った。亜子は正面でオレンジジュースを大事そうに持っている。はじめて会った時は確か、理系の学生らしく白衣を着ていたから、何となくその印象が強くて、あまりよく覚えていなかったけれど、何にも加工していない黒髪が素直で綺麗な子だなと思った。ただありがとうと呟いた口調には、色が全くなかった。女の子には好かれている自覚があるし、別段なんともなくても皆にこにこして喋ってくれる子ばかりだったので、そんな風にされるのは新鮮だったせいもあって覚えていた。 「ええーと、亜子ちゃん、話って何かな」 一口飲んでカフェオレはもういいのか、テーブルに置かれたカップを見ながら、亜子はそれにはすぐに答えずに少しだけ黙って考えていた。文系の男の子は、なんだか浮ついていて皆あまり好きではなかった。だからと言って理系の男の子が好きなわけではなかったから、どちらかと言えばの話になるが。現に逢坂と一緒にいた友達らしい男も、下品なことばかり言っていたような気がする。ほとんど聞いてはいなかったけれど、逢坂は自分は彼らと違うと思っているのかもしれないけれど、ほとんど初対面の人間の下の名前をそんな風に気軽に呼んでしまえる人間性というのを、亜子はきっと自分では理解できないと思った。 「さっきのことなんだけど」 「・・・さっきの?」 「失礼を承知で聞くんだけど、逢坂くん、あなた、男の人が好きというのは本当なの」 回りくどいのは嫌いだったし苦手だったから、亜子は直球でそう尋ねると、逢坂は目を丸くして、それから少しだけ眉尻を下げて困ったような顔をした。あんな風に友達にからかわれているなら、そういう身内ネタなのかもしれない。噂でも嘘でも、別に驚いたりはしなかった。彼らがそういうことで笑ったりふざけたりすることを、亜子は嫌悪することができても、止める権利はなかったから。しかし、逢坂はその時そこで亜子の考えていることとは、まるで違うことを言った。 「あー・・・まぁ、ほんと、かな」 「・・・ほんと」 「別に男が好きってわけじゃないんだけど、女の子とも付き合ったことあるし。ただ今付き合ってる人は男の人ってだけなんだけど」 ぼそぼそと小声で逢坂がそう言い、何故か少しだけ頬を赤くした。別に男だけが好きなわけではなくて、女も恋愛対象なのか、それは兄とは違う、兄は男しか好きになれないのだから、逢坂とは全然違う。考えながら、亜子は逢坂がそう答えることをあまり予測していなかったので、その後自分が何を言えばいいのか分からないで、ただ間を持たせるためにジュースを飲んだ。男が好きなのと、男も好きなのでは、全然意味合いが違うと思った。本当なら、あそこで伊原も本当のことをただ言っていただけなのか。鮎原みたいなおおよそ接点のなさそうな女子学生の耳に入るほどオープンにしていて、それで逢坂は亜子が知っている兄みたいに俯いて生活をしているわけではなかった。ここに来るまでに擦れ違う学生に沢山声を掛けられて、その度に少し止まって、彼が笑いながら話をしていたことを、亜子は近くで見ていた。彼は兄みたいに目を伏せて歩いていない。誰かが自分のそういう性癖を、どこかで知っていてどこかで笑っているかもしれないのに。 (なんで、逢坂くんは、お兄ちゃんみたいじゃないんだろう) そう思うと悲しくてなんだか虚しかった。逢坂と会って話をしたら、もっと自分を慰められるかもしれないと思ったけれど、結局明るいところにいる逢坂の眩しい光に当てられて、自分の影が濃くなっただけだった。苦しくなっただけだった。意味なんてなかった。はやくこれを飲んで帰ろうと、亜子は思って、ジュースのストローを銜えた。鮎原に後で逢坂のことを詳しく聞きに行った時、鮎原はにやにやしながら亜子ちゃんがそんなことを聞くのは珍しい、好きになっちゃったのと笑った。ここに来る前に、伊原にも散々逢坂に気があるみたいなことを言われた。男と女では何故そうなのだろう、話がしたかっただけなのに、すぐにそうやって好意があるみたいなことにいちいち結びつけて考えられるのだろう。兄はそんな世界とは無縁で生きていて、きっと兄も女の子とありもしない好意の話を散々されているのだろうけれど、少しだけ亜子はそれが羨ましいと思った。 「亜子ちゃん、なんで俺にそんなこと聞くの」 「・・・ごめんなさい、立ち入ったことを聞いて」 「いや、別にいいんだけど。知ってるやつは知ってるから、俺も隠してないし」 はっとして正面の逢坂を見ると、逢坂はそのつるりとした目で、亜子のことをじっと見ていた。別に責めているような口調ではなかったけれど、亜子はそれに答えることはできなかったから、適当にはぐらかしたつもりだった。逢坂は亜子が質問に答えていないことに気付いているのかいないのか、そう言って何故か笑った。どうしてそんなことができるのだろう、亜子はまた不安になる。 「・・・なんで隠さないの」 「え?」 「何か、嫌なこととか言われないの。逢坂くん女の子にも人気があるみたいだし、そんな噂広まったら遊べなくなるとか思わないの」 「・・・あー・・・」 勝手なことを言いながら、亜子は逢坂の反応が怖くて俯いてジュースをストローでかき混ぜていた。なんとなくもうそれを口に入れる気にはなれなかった。いつの間にか喉まで何かで一杯になっていて、それ以上は何も入りそうになかった。 「面と向かって言ってくる奴はいないなぁ、もしかしたら裏で何か言われてるのかもしれないけど、まぁそんなこと他のことでも別にあることだから、気にしだしたら止まらないっていうか」 「隠してないのは別に疚しいことしてるわけじゃないからかなぁ。後は俺、まだ学生だから責任とかもないし、俺の今付き合ってる人は社会的な体裁もあるからって隠してるみたいだけど。まぁそれはそれで、俺も働きだしたら多分こんなにオープンにはできないだろうし、今だけって思いながらやってる感じかなぁ」 「あと、女の子も男も別にさ、俺がバイなのが気持ち悪くて嫌なんだったら、そんなの無理して友達しなくていいと思ってるし、遊んでくれる子は他にもいるから、俺は俺を受け入れてくれる人のところにいるだけで、別に無理な人に対してどうしてもっていうのがあんまりないからなぁ」 亜子は質問には何も答えられないのに、逢坂はそうやってひとつずつ考えながら答えてくれて、亜子はそれをほとんど俯いて聞いていた。皆そうやっているのかもしれない、もしかしたら逢坂のほうが普通で、兄のほうが不器用すぎるのかもしれない。考えながら亜子は俯いたまま膝に置いた手をぎゅっと握った。それでも、そんな風に自由に生きている逢坂のことが羨ましいと思った。自分のことではないのに、兄のことなのに、そうやって時々、兄のことばかり考えすぎて、兄と自分の境界がなくなることは、亜子の中では時々あった。自分の苦しみなのか、兄の苦しみなのか分からないけれど、それで首を絞められる日も、時々あった。 「亜子ちゃん?大丈夫?」 「・・・ごめんなさい、また、立ち入ったこと、聞いたわ」 「いいんだけど・・・別に。でもほんと、なんで俺にそんなこと聞くの?」 首をかしげる逢坂は、何も知らない。当然だ、このことを知っているのは、亜子自身とそれから数人しかいない。だからその時、亜子は逢坂にそのことを言おうと思ったのかもしれないし、理由は他にあったのかもしれない。かつて鹿野目が自身で留めておくことが難しくなって、それで家族に吐露したみたいに、もう亜子はその感情とふたりでいるのにいい加減飽き飽きしていたし、うんざりもしていた。けれどしつこくまとわりついてくるそれと、離れることができないのも頭ではよく分かっていた。 「好きな人がいるの」 「・・・好きな人?」 「その人多分、男の人が好きなの。でも私にはそういう感情は理解できなくて、だから」 「・・・―――」 聞くと逢坂は目を見開いて、少しだけ驚いたような表情を浮かべた。兄と自分の間には、きっとそれ以上の問題が往々として横たわっているのは分かっていたが、流石にそれは黙っていることにした。これ以上問題はややこしくないほうが良かった。 「ごめんなさい、逢坂くん。興味本位で色々聞いてしまって、真剣に答えてくれてありがとう」 言いながら立ち上がったら、テーブルの上に減っていないオレンジジュースが残っているが目についた。これを飲んだら帰ろうと思っていたのに、結局それを飲むどころではなかった。逢坂の目が自分を追いかけているのは分かったけれど、これ以上そこにいたら余計なことを言ってしまいそうで怖かった。よく知らない男子学生相手に、自分の一番触れられたくない柔らかい部分を晒すことなんて、亜子は自分にはとてもできないと思ったけれど、もう半分以上それは晒した後だったことには気づいていなかった。 「亜子ちゃん、待って」 「・・・―――」 亜子は立ち上がったまま、ジュースから逢坂のほうにゆっくり視線を移した。そこで逢坂は亜子が思ったよりも真剣な顔をして、亜子のことを見ていた。 「興味本位じゃないだろ。あと、もう謝んなくていいから」 「・・・逢坂くん」 「俺でよかったら話を聞くから、また、よかったら声かけて」 「・・・ありがとう」 そうして少し俯くと、亜子の目からぼろっと涙が零れて、ぱたぱたとテーブルの上に落ちた。嘘みたいに大きな涙が作った小さな水たまりを、亜子は顔を上げられないままじっと見ていた。すると俯いたまま動かない亜子の頭を、ぽんぽんと誰かが撫でるような感触があった。はっとして顔を上げると、今まで上げられなかったのが不思議みたいに、それは簡単に上がって、目の前で笑っている逢坂が目に入った。途端にまたぼろぼろと目から涙が零れて、それは静かに亜子の頬を滑って、そのまま落ちていった。

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