11 / 42

シンデレラグレイ Ⅳ

「おう、早かったな」 それはこちらのセリフなのに、扉を開けると柴田はまだ仕事から帰ってきたばかりなのだろう、小奇麗なストライプのシャツを着たままで、そう言った。まだ時間は9時前で、柴田のいつもの帰宅時間を考えれば幾分も早い。考えながら靴を脱いで、柴田が部屋の奥に消えるのを、追いかけるみたいに奥へ進む。テーブルの側の椅子にはジャケットがかかっていて、側には仕事に持って行っている大き目の鞄がひっそりと置いてあった。テーブルの上は今日も乾いていて、きっとまだ何も食べてないのだろうと思う。何か今日も作らなければならないと思ったけれど、いつもは億劫ではないそれが、なんだか今日は余りやる気が起きなかった。とりあえず、椅子を引いてそこに座る。作らなければなんて思っているのは逢坂だけで、別に義務ではないから、作らなければ作らないのかと柴田は聞くかもしれないが、それは多分作れという意味ではないだろうことは分かっている。 「なんだ、お前、今日元気ないな」 「んー・・・」 言いながら柴田は窮屈なのか、シャツのボタンを全部外してからそれを脱いだ。下には何も着ていないのか、痩せた肢体が露わになる。脱がされるのは恥ずかしくて嫌がるのに、別にこういう時はいいのかと思いながら、なんとなくそれを見やる。柴田は適当なTシャツを引っ張り出してきて、それに着替える。多分、今日はそのまま眠るつもりなのだろう。 「別に、元気だよ」 「あ、そ。女と遊んでたからかー?若いんだからもうちょっとしゃきっとしろ」 「・・・おんな・・・?」 はははと柴田は笑っているが、多分笑いごとなんかではなかった。もしかして亜子のことを言っているのかもと思ったけれど、それを柴田が知る由はなかった。多分ないはずだった。たまたまそういうことを言っているだけなのか。しかし、逢坂の知っている柴田はたまたまでもそんなことを言い出す人ではなかった。何か確証でもあるのか、別に後ろめたいことがあるわけではないのに、何故か背中に冷や汗をかいて、逢坂は考えた。考えたところで何も分からなかったけれど。 「ゆうしくん・・・何の話してるの・・・?」 「いや、伊原くんが今日メールをくれて、逢坂が女と浮気してるから懲らしめてくださいって」 「・・・いはらっち・・・!」 そういえば、逢坂がバイトをしているバーに時々来て、そこで柴田と何か親密そうに話している月森も、柴田の連絡先を何故か知っているようだったし、伊原も時々その月森と一緒に来ることがあったので、その流れで聞いていてもおかしくはなかったけれど、柴田の口から伊原の名前が出てきたのは初めてだったので、少し吃驚した。月森は無害だから別に構わないけれど、伊原に関しては害しかないから、即刻連絡先を消しておかなければいけないと、逢坂は柴田の了承を得ないまま勝手に心に決めた。幸い、柴田はそれを深刻には捉えていないみたいで、へらへら笑っているから良かったものの、もし誤解でもされたらどうしてくれるのだと、それがきっと狙いの伊原に対して、逢坂はひとりで苛々するしかない。 「侑史くん!それ伊原っちの悪ふざけだからね!?分かってるよね!」 「あーうん、分かってる分かってる」 「すごい流されてるみたいでヤダ・・・」 「何なんだ、お前は」 言いながらまた柴田が笑うので、逢坂は少しだけほっとした。まだ亜子の泣き顔が、頭の中をちらついて、笑ったりする気分ではなかったけれど、柴田と喋っていたら少しだけ落ち着いたような気がした。勿論、世の中の人全ての恋が成就しているわけではないことは分かっているけれど、どこの合コンに行ってかわいい子がいたのに他の男にお持ち帰りされただの、なんだのという話ばかり聞いている逢坂は、彼女のそれがひどく純粋な思いに見えて、実らないでいることがそんなに、よく知らない男の前で涙を零させてしまうくらいに、辛いことなのだと知らなかった。柴田も逢坂と今の関係になる前は、上司のことを長く思っていたみたいだけれど、結局叶わなかったそれを柴田は、今はどう思っているのだろう。もし自分だって、柴田が頷いてくれなかったら、今頃どうしてるのだろう。今頃誰かと、笑っていたのだろうか。 「なんだ、お前ほんとに元気ないな、大丈夫か、しずか」 「・・・うーん、だいじょうぶ」 「熱でもあるのか?無理して来なくて良かったんだぞ」 柴田が深刻そうな顔をして近寄ってきたので、これ幸いと椅子に座ったまま腰を抱くようにすると、柴田はそのまま逢坂の額に手を当てて、自分のそれと熱がないか比べている。本気で熱があるかどうか心配しているのかと、それを見ながら逢坂は考える。最近、柴田は逢坂がこんな風にくっついても、余程のことがなければ嫌がらない。それは自分が柴田の恋人だからで、けれど恋人にはならなかった選択肢だってきっとあったはずだ。自分のそれが叶わなかった未来もきっとある。あんな風に知らない誰かに気持ちを吐露して涙を零していたのは、亜子ではなく自分だった可能性もあるのだ。 「熱はなさそうだな。早く寝ろ。風呂入るか?」 「ねぇ侑史くん」 「ん?」 見上げると柴田は優しい顔をして、逢坂を見ていた。こんな風に優しい顔を向けられていたのは、自分ではなかったかも、柴田がそれを上司ではなくて、今自分に見せているみたいに。 「今日さ、女の子から恋愛相談?されて」 「・・・へぇ。もしかして伊原くんはその話をしてんのか?」 「あぁ、まぁそうだと思うんだけど。その子がさ、好きな人は男が好きなんだって言って泣くんだ。俺、なんて言ってあげたらいいのか分かんなかった」 「・・・ふーん」 言いながら、柴田はぽんぽんと俯く逢坂の頭を撫でた。 「お前は優しいな、しずか」 「・・・やさしい?」 「うん、俺はお前が優しくて嬉しいよ。でもちょっと妬けるな」 「・・・―――」 柴田がそんなことを言うのは初めて聞いた。ぱっと顔を上げると、柴田はそこで逢坂に腰を抱かれたまま立っていて、逢坂が亜子にやったみたいに、逢坂の頭をぽんぽんと撫でていた。それを見ながら、最後のあれはもしかしたらまずかったかもしれないとなんとなく逢坂は思った。 「その子、お前のことが好きなんじゃないのか」 「えー・・・そんなことないと思う。会うの二回目くらいだったし」 「あ、そ。ならいいけど」 「ならいいってどういうこと?」 逢坂がそう言うと、柴田は口元だけを歪めて笑い、そしてそのまま顔を寄せてきて、逢坂があ、と思ったその一瞬に、唇に触れるだけのキスをした。ふっと唇が離れるのに、耳が熱くなったのが分かる。柴田が満足そうな顔をするのに、逢坂はどうして今、柴田がキスをしたのかよく分からなかった。そういうことをする時は、大抵いつも逢坂からで、ねだったらしてくれることもあったけれど、自分からこんな風に自然に柴田がキスをすることなんて、今までほとんどなかった。 「・・・なんでキスしたの、侑史くん」 「なんで?・・・あー、お前がその子に優しかったから」 「こんなご褒美もらえるなら、俺もっといっぱい優しくするよ」 「はは、やめろ、節操ないぞ」 言いながら笑う柴田の腰を抱いたまま、逢坂は立ち上がってそのまま柴田を持ち上げた。柴田は身長の割に、全然食べないせいで体はがりがりだったから、持ち上げるのは割と簡単だった。けれど抱き上げると何故か柴田はそれが気に食わないみたいで、いつも抵抗する。その時も、吃驚したみたいにはじめは動かなかったけれど、逢坂が寝室の扉を足で開ける頃には、その背中をばしばし細い腕で叩いていた。別に全然痛くなかったけれど、柴田をベッドの上に下ろしてから、逢坂はポーズの意味も込めて一応背中をさすって見せた。 「侑史くん叩きすぎだよ、痛い」 「やめろって言ってるだろ」 「なんで嫌なの、俺が運んであげたほうが楽じゃん」 「運んでなんかいらねぇんだよ、軽々持ち上げやがって、男のプライドってもんがあるだろ」 「ふーん、じゃあもっと食べて太ったほうがいいよ」 逢坂は痩せている柴田の体のパーツが好きだったけれど、そんなことを言ったって、どうせ柴田は食生活を改善することなんてできないし、柴田が現実的に太るなんてことは有り得なかったから、こんな言葉は無駄に終わるのは分かっていた。さっきまで可愛いことを言っていたのに、柴田はそんなに抱き上げられたことが気に入らないのか、いつもの不機嫌そうな顔をして、ベッドに座ったまま逢坂を見上げている。その肩をついっと押して、ベッドに寝かせるとそのまま柴田の体をまたいで、キスをした。柴田がさっき着替えたばかりのTシャツの下から手を入れると、骨が浮いたわき腹を撫でる。 「ってかお前、元気だな、さては」 「別にしんどいなんて言ってないじゃん。そっちが勝手に心配してたんでしょ」 「オイ、俺のやさしさを無下に扱うな」 眉間にしわを寄せて柴田がそう言うのに、逢坂はあははと笑い声を上げて、それから着ていた自分のTシャツをばさりと脱いだ。柴田は不機嫌そうにしているけれど、ベッドから降りてしまうほどではないし、きっとそれは許されているのだ、考えながら顔を寄せてもう一度キスをした。 「無下になんかしないって、これからいっぱい優しくします」 「・・・あぁ、そう―――」 言いながら柴田は照れたように赤くなって、ふいっと逢坂から視線を反らした。 (侑史くんの恋は実らなかったけど、だから今ここにいてくれてるんだ) (だったら俺はそれに感謝する) 彼女の恋が実ればいいのにと、どうして実らないのだろうかと、あの時あのカフェでは確かに思ったけれど、もしも実らなくてまた涙を零すことになったとしても、きっと彼女の側には頭を撫でて慰めてくれるひとがいるだろう。それがきっと次の恋になって、今度は、今度こそは、彼女もきっと笑うことができるだろう。そんな風に自分に呪文をかけないときっとやっていけない。前なんて向いて歩くことなんてできない。だから彼女は広い学内の不確かな噂なんか信用して、わざわざ自分のところまでやって来たのだ。 「しずか?」 ベッドに仰向けになったまま、柴田は反らしていた目をこちらに戻して、小さい声でそう呼んだ。 「侑史くんが俺のこと好きになってくれてほんとによかった」 「何言ってんだ、お前」 「うん、ほんとに」 「・・・しずか?」 なお、心配そうな声で名前を呼ぶ柴田にも分かるように、にっこりと逢坂は微笑んで見せた。 彼女にも奇跡みたいな恋がいつか降ってきますように。 fin.

ともだちにシェアしよう!