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眠れる森の君のため Ⅰ

真中デザインの中で唯一の女性管理職を務めている、D班のリーダー夏目(ナツメ)まどかには、最近大いなる悩み事があった。 「あ、なっちゃん、おかえりー」 「夏目さん、おかえりなさい!でしょうが!」 「あはは、そうともいうー」 所員のひとり、まだ若い織部になにかと舐められているような気がする。気がするのではなく、きっとこれは舐められているに違いないと、じとっと織部の顔を睨むように見ると、いつものへらへらした顔で笑われて、夏目の視線から逃れるみたいにデスクをひらりと離れてどこかへ行ってしまった。頭が悪いわけでも要領が悪いわけでもないくせに、織部は夏目の班に配属された時からずっと敬語がうまく使えないで、指導しても指導してもよくならないので、とりあえず内輪は許そうと決めてから、使う気配すら見せないようになってしまった。これではリーダーとしての威厳がないも同然である。ただでさえ、男社会で生きていくのに、頭が痛いことがいくらでも他にあるのに、考えながら唇を噛んで、夏目は仕方なく席に戻った。すると斜め前に座っていた白雪(シラユキ)が、夏目の帰宅に気付いたのかパッと立ち上がる。 「夏目さん、おかえりなさい」 「あうー、ひめちゃーん!あいつマジ殺したい!」 「物騒なこと言うのやめてください。あ、柴さんからひとつ仕事預かってますよ」 「えー、柴ちゃん私のことこき使いすぎ!文句言う!」 「文句言うのもやめてください。僕で良かったら行くんで。レセプションですよ、柴さんも真中さんの代理出席みたいです」 さらさらと流れるように仕事の説明をしながら、白雪は持っていた招待状らしきものを夏目の机の上に置いた。白雪はB班の矢野やC班のリーダー堂嶋らと同期で、何でもよく見えるひとであり、柔らかい物腰で他の人間と軋轢を生まないので、他の班の仕事のヘルプに回されていることが多い。他の所員からは夏目の懐刀なんて呼ばれているのを、夏目は何となく知っていた。ひめちゃんというのは真中がつけたあだ名で、苗字が白雪というからという理由らしい。本人はひめちゃんなどと呼ばれるにしては、ひょろっと縦に長く、可愛らしさなど微塵もない外見だったが、夏目は班の中で唯一自分を慰めてくれる存在として、親愛の意味を込めてひめちゃんと呼んでいる。夏目はまだ文句を言いたかったが、白雪が置いてくれた招待状を指先で捲った。レセプションという名前のよく分からないパーティーに、真中が時々出席しなければいけないことは、夏目もよく知っていた。副所長になった柴田とは、歳が同じせいもあって、柴田が中途採用で夏目よりもここの事務所での歴は短いけれど、ほとんど同期みたいな扱いなので、他のリーダーよりは話ができると勝手に思っている。 「ふーん、変な仕事じゃなくて良かった。ひめちゃん任せていいの?」 「あ、はい。僕で良ければですけど」 「えー、じゃあお願いしようかなー・・・ん?」 考えるのが面倒だと言う理由で、そのままにこにこしている白雪に仕事を振ってしまおうかと思った時、織部がまたどこからともなくデスクに戻ってくるのが見えた。織部はそんな風にちゃらんぽらんだったが、ちゃんときっちり仕事はするので、夏目もなんだか強く出きれない部分があって、そしてさらにそれを織部に見透かされているようなところもあって、ますます可愛くなんてなかった。織部がパソコンに向かって姿勢を伸ばすのを見ながら、夏目はひとついいことを思いついた。 「織部、ちょっと来て」 「あ、なんすか」 「いいから、呼ばれたら早く来る!」 「用事があるなら夏目さんが来たらいいじゃん」 「口答えするな!」 にやにやしながら織部はキャスター付きの椅子を少し引いたけれど、立ち上がる素振りは見せない。夏目は苛々して机を拳で思わず叩くと、じんと痛みが這い上がってきた。なんでこんなことで苛々させられているのか、全く不明だが、織部は何故か部下のくせに一筋縄で言うことを聞かない人間だった。もっとも夏目の沸点が低くてすぐ苛々して怒るのが面白いから、織部も毎回そんな風な態度であることは、隣で見ている白雪にはすぐに分かることだったが、何故か夏目は自分のことだからなのかもしれないが、それに気づく素振りがなく、今日も今日とて苛々して織部を怒り、そして織部を喜ばせている。 「そんなことで喧嘩しないでください、ふたりとも。織部くん、夏目さんのこといじめないであげて」 「ひめさんってほんと夏目さんに甘いよね。惚れてんすか」 「・・・あ、いやー・・・」 「お前!私の大事なひめちゃんを困らせるな!あと私既婚者だから!知ってるでしょ!」 我慢しきれず立ち上がって夏目が叫ぶみたいにそう言うのに、他の班のひとに迷惑だろうと思いながら、やっと織部は立ち上がって仕方なく夏目のデスクに近づいていった。こんなことだから、実状とは全く関係なく、夏目班はいつもぴりぴりしている、などと他の所員に言われて遠巻きにされているのだ。ぴりぴりしているのはリーダーの夏目だけで、それを隣で見ている白雪も、そして織部も、ぴりぴりなんて表現されるものとは、仕事は忙しいにしてもまったく無縁だった。 「なんすか、既婚者夏目さん」 「いちいちカチンとくる言い方するな!これ!お前行け!」 言いながら夏目が投げつけるように渡してきたレセプションの招待状が、床に落ちる前にキャッチして、織部はそれをぺらりと捲った。 「あー、タダ酒のやつですね、やったー」 「言っとくけど、真中さんとじゃないからな。柴ちゃんとだから!あとお前運転手だから飲むな!」 「えー、タクシー使っちゃダメなんすか。けちぃ」 「ダメに決まってるでしょ。アンタちょっと私のこと舐めすぎだから。柴ちゃんにしっかり教育してもらうから!」 そう言って夏目がもう一度デスクを握った拳で叩くのを見ながら、織部は口角を引き上げた。その顔は別段柴田のことなんて恐れていないようで、夏目はまた勝手に腹が立った。所員はほとんど柴田と接点がないから、織部も柴田ときっと話したことがないから分からないのだ。柴田はもしかしたら所長の真中よりも仕事に厳しく、自分にも厳しく、その分他人にも厳しい。いい加減なことをしようとすると、そんなもの許容範囲内だろうと夏目が思っていても、柴田は敏感にそれを察知し、納期が迫っていようがなんだろうが、関係なく突っ返してくる。その度に喧嘩することにはなるのだが、仲がいいというか、多分腹を割っているので、取り繕う部分がない分、柴田は夏目の前では辛辣でその分誠実だった。自分はそんな風に仕事はできないと思いながら、そんな風に生きている柴田のことを少しだけ羨ましいような気がする。 「自分で教育したらいいじゃないですか、既婚者夏目さん」 「連呼せんでいい!とりあえず、行く前に柴ちゃんに挨拶行っときなさいよ!」 「・・・はあーい」 面倒臭そうに織部がそう間延びした返事をして、くるりと踵を返すと夏目のデスクから離れていった。そして自分のデスクにも戻らずに、そのまま事務所の奥に消えていく。その足で柴田に話でもしに行ったのかもしれない。それを見届けて、夏目は自分の椅子に深く腰かけ直して、ふうと溜め息を吐いた。この先のことはあの鬼上司、柴田に任せておけばよかった。 「良かったんですか、夏目さん」 「いいいい、柴ちゃんああいうのだいっきらいだから、鬼のように怒られればいいのよ・・・ふふふ」 「悪い顔になってますよ」 夏目を窘めるみたいに、白雪が隣で心配そうに呟くのを聞きながら、夏目はあははと笑い声を上げた。自分でどうにもできなかったことは、確かに癪ではあるものの、もうこうなってしまえば、誰の手でも借りて織部をちょっと懲らしめなければいけないと考えながら、夏目は奥歯を噛む。この事務所の中で一番怖いと有名なあの柴田なら、あのちゃらんぽらんの織部をびしっと教育してくれるだろう、夏目はその時、そういう大いなる期待を持って、そのレセプションの招待状を織部に投げるように渡したのだった。

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