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眠れる森の君のため Ⅱ

夏目班から自分が行くことになりましたと、柴田に一応報告に行くと、柴田はちらりと織部を見上げて、そのグレーの眼鏡をついと触るとおぉと短く返事をしただけだった。余りにもあっさりしていて、次の瞬間には別の仕事をはじめる柴田の前にいつまでも立っているわけにもいかなくて、仕方なく織部は招待状を持ったまま、その場を一度は離れようとした。すると後ろで柴田が立ち上がる気配がして、振り返ると柴田が手に別の仕事の資料を持ったまま、織部のことを見ていた。 「ドレスコードあるからちゃんと見とけよ」 そうして最後にそう釘を刺されたのが一週間前。適当に返事をして背を向けた。どうせドレスコードなんてスーツに決まっているし、いつもスーツを着ている織部には、そんなに関係のないことだった。だから柴田も言わないでもいいかと一度は思って、それでも一応と思ってそんな風に付け足してきたのだろう。心配性のすることだ。どうせなら仕事であんまり着ないようなスーツがいいかと思って、その日はダブルスーツにして出勤した。レセプションは午後からだったので、午前中は眠たい内勤をしなければならなかった。柴田は普段スーツを着ないひとだったが、その日は朝からぱりっとしたネイビーのスーツを着ていて、偏食のせいで痩せすぎの体も、ジャケットの厚みでなんとなく誤魔化しているのか、いつもよりは幾分かマシに見えた。 「柴さん!今日スーツなんですね!スーツも可愛いです!」 「・・・お前、朝から元気だな、佐竹・・・」 いつものように青い顔をしながら、寄ってくる佐竹を柴田がそうして交わすのを、織部は少し遠くから見ていた。中途採用だったが歳が同じのため、佐竹は織部のほとんど同期みたいな扱いだった。佐竹と同じ班の徳井ともども時々は合コンに一緒に行くくらいの仲だったが、それにしても趣味が合わなくて良かったのか良くないのか、ふたりとも柴田のことが好きみたいだったけれど、織部にとっては、柴田はがりがりで目つきの悪い不機嫌な上司でしかなかった。一応、挨拶に行ったほうが良いかなと、佐竹から逃げる柴田の背中を追いかけていると、目の前の会議室の扉が開いて、そこから不意に天海が出てきた。 「あ、天海さん」 「・・・おう」 反射的に声をかけると、天海は短くそう呟き、そのまま通り過ぎようとして、何かに気付いて足を止める。会議室の中からは、B班の班会議だったのか、矢野や須賀原が何やら難しい顔をして話しながら次々出てくるところだった。矢野に見つかったらまた追い払われると思ったが、矢野は話に夢中で織部には気づいていない。同じ不機嫌な上司なら、天海のほうが断然かわいいのにと思いながら、織部はそれを口には出さない。天海はそもそも不機嫌なわけではなく、周りのことに関心がないのでそんな顔になるのだろう。それは柴田とは全然違うというか、むしろ真逆の意味合いにすら思える。 「天海さん、天海さん。俺、今日レセプション行くんで、おしゃれしてるんですよ!スーツ、ダブルでかっこいいっしょ」 「・・・銀行の頭取みたいだな」 「なにそれ、褒めてんの?ベストもあるんだぜ、これ。なかなか凝ってるでしょ」 「・・・ふーん」 柴田はスーツを着ないひとだったが、そういえば天海もスーツを着ないひとだった。肩が凝るので襟がついている服すら苦手だという天海は、今日もノーカラーのシャツを着ている。織部のスーツには興味がなさそうに、無表情でそう呟いて、そのまま行ってしまうのかと思ったが、天海はすっと織部に近づいてきて、そしてベストに指をひっかけて、それを手前に引っ張るようにした。 「ボタン多くて外すの楽しそう」 「・・・どすけべ」 すぐ側にいる織部にしか聞こえない音量でそう言うと、天海は引っかけていた指を外す。織部は眉を顰めながら、一応小声で悪態をついてみたけれど、それが天海に響いているなんてちっとも思っていない。自分の耳が赤くなっているのが分かるけれど、天海はそれを見ているくせににこりともしないし、それが冗談なのか何なのか分からない。誘われているのかと思うこともあるけれど、今日は確か天海は誰かと飲む別の用事が入っているはずだった。こういう時なんでそんな風にするのか、織部には心底分からない。セックスできないなら言わないでくれよと思いながら、それも言えないでいる。 「オイ、織部」 「あ、柴さん」 煩い佐竹からやっと逃れたらしい柴田が、少し遠くから織部のことを呼んで、目の前の天海から一瞬視線が反れる。すると天海は織部の肩をぽんぽんと叩いて、踵を返してそのまま自分のデスクに戻っていった。天海との一方的な恋人関係も、なかなか様にはなってきたと自分では思っているが、天海の態度は相変わらずで、クールでドライで、掴みどころがなかった。天海は織部に踏み荒らされていると思っているのだが、一方で織部としては踏み込めない領域のほうが多いと思っている。なんとかしたい気持ちはあるものの、天海相手に他に何の仕様があるのか、織部には正直分からないでいるのだ。 「すいません、柴さん」 「あ、いやぁ・・・お前さぁ・・・」 「え、なんすか」 柴田は走って側までやってきた織部を見ながら、何か言い辛そうに口ごもった。さっきの会話は柴田の場所からは遠すぎて絶対に聞こえてないけれど、なんだか織部は嫌な予感しかしなかった。せめて取り繕うようにへらりと口元を綻ばせると、柴田はそれをちらりと見てまた目を反らした。 「お前、アマさんと仲良いのか」 「・・・え?」 「だって班員でもないのに、あんな親しそうに・・・今喋ってただろ」 「・・・あぁ・・・そう・・・」 矢野にいつか使った言い訳を言いかけて、織部はそれを飲み込んだ。時々、鬼と称され、所員にも管理職にもそして真中にさえ怯えられている柴田は、その時視線をふわふわと漂わせながら、言い辛そうにそう言ったのだ。あぁ成る程と思いながら、織部は下唇を舐める。 「まぁまぁじゃないすか」 「でもアマさんが、管理職でもない班員でもないのにお前と仲良くするなんて・・・」 「不思議ですか。そうですよねぇ、柴さん、天海さんと仲悪いっすもんねぇ」 「え、は?わ、悪くない、別に・・・」 「あ、俺仕事あるんで、また午後よろしくお願いしますー」 「ちょっと待て、織部!」 まだ何か柴田は言いたそうにしていたが、それは聞かないようにして、織部は柴田に追いつかれないように急ぎ足で自分のデスクへ戻っていった。別段、急がなければならない仕事が残っていたわけではないが。デスクににやにやした顔のまま戻ると、隣の白雪がじいっとこちらを見ているのと嫌でも目が合うことになった。白雪も柴田と似たような体型で、背丈は織部よりも高いくせに、薄っぺらい体をしていて、年中体調が思わしくないらしい。今日は比較的顔色が良かった。 「・・・なんすか、ひめさん」 「いやぁ、なんだか、織部くん楽しそうな顔してるなあと思って。レセプションそんなに楽しみなの?」 「あぁ、そうすね。合法のさぼりみたいなもんじゃないですか、レセプションなんて」 「あはは、まぁそうだけど。お酒には気を付けてね。柴さんもあんまりお酒強くないみたいだから」 「へー、そうなんすか。知りませんでした。そういやタケがそんなこと言ってたような・・・?」 独り言みたいに言いながら、織部は佐竹が言っていたことを思い出そうとしたけれど、あまりうまく思い出すことができなかった。実を言うと、織部もあまりお酒は強くない部類の人間で、そこそこ付き合い程度に飲めるくらいだった。大学のころはもう少し飲めるようにならないものかと、結構無茶もしたけれど、そういう体質なのだと割り切れば、今は別段なんてことはなかった。天海はその逆で、兎に角いくら飲んでも酔えないみたいで、店に行けばジントニックを水みたいに飲んでいる。ふと織部は、柴田じゃなくて天海と一緒にレセプションに行くなら、こんなに楽しいことはないのにと思ったけれど、B班のリーダー席で天海はさっき織部に呟いたことと、全く無関係みたいな涼しい顔をして、パソコンの画面を眺めていた。

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