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眠れる森の君のため Ⅲ

白のフーガは柴田の私物らしい。仕事で出張することも多くて、大体は電車を使うことになっていたけれど、何台か出張用の車も準備されていたが、柴田は自分が出かける時はいつも自分の車を使うようにしていた。そして暗黙の了解なのか、車で通勤をしている管理職は自分の車を使うことが多かった。取りあえず行きは自分が運転すると言うので、織部は助手席に座って外の景色を眺めていた。 「織部、朝のことだけど、俺は別にアマさんと仲悪くないからな!」 「しつこいっすよ、柴さん。なんでそんな否定したがるんですか、別に言わしときゃいいでしょうが」 「嫌なんだよ、俺が!お前、アマさんに変なこと吹き込むなよ!」 「あぁはいはい」 面倒臭くて適当に返事をすると、柴田がハンドルを握ったまま、不機嫌そうな顔の眉間にしわを寄せた。自分が例えば柴田の何を言ったって、天海は信じたりしないことを織部は分かっていたけれど、それを柴田に教えてやる必要は多分なかった。 (それに多分、一方的に天海さんのほうが柴さんのこと嫌いなんだろ) (自分より良くできるから、目について嫌なんだろ。そんなのただの醜い嫉妬でしかないのに) (なんで柴さんがこんなに必死になるんだろ) ちらりと運転席を見やると、さっきまでの不機嫌はどこか影を潜めて、柴田は真剣な顔をしてフロントガラスの向こうを見ていた。そういう意地やプライドみたいなものが、あのポーカーフェイスの天海にもちゃんと存在しているなんて不思議だったけれど、ちゃんと天海が息をしていることの証明みたいで、織部はそれが嬉しかった。そもそも所員の織部は、管理職同士の関係性はこれまでの経過が長いせいもあって、複雑でよく分からなかった。夏目も管理職が女性ひとりなので、いろいろ気苦労もあるらしく、管理職だけの会議である定例会が終わると、分かりやすくへこんでいたり、白雪に甘えに来たりしている。そして他にも女性管理職が増えればいいと画策しているらしく、それこそ天海の班の矢野をしつこく誘っているようだったが、今のところ芽は出ていない。それよりも自分の班員を推薦しろと柴田に言われていた時、夏目は悪びれもせずにひめちゃんがうちの班からいなくなったら私が困ると豪語していたので、白雪にその気があるのかどうか不明だったが、メンバーはしばらく変わりそうにないなと、織部は織部なりに自分の班のことを考えたりしたものだった。 「柴さんなにびびってんですか、天海さん相手に。あのひとアンタの部下でしょ」 「ぶか・・・!お前、怖いこと言うな。アマさんにそんなこと言うなよ、絶対」 「言わないけど別に。でもそうじゃん」 「組織的にはな。でもそんなの便宜的なことだ。俺は一生あのひとの後輩なんだよ」 「ふーん・・・」 所員にも管理職にもそして極め付けには真中にすら鬼と囁かれる柴田が、そんな風に気を遣っている天海は、本当は自分が思っているよりすごい人なのかもしれないと、織部は少しだけ思ったけれど、織部の知っている天海は別に、柴田がそんな青い顔をして恐れるような相手ではなかった。それは自分と天海の関係性の上でのことであることは、流石に織部も分かったけれど。天海は基本的には他人に無関心だし、口数が少ない分、怖いと思われがちであるが、柴田みたいに怒鳴ったりしない人だった。その天海にあんな風に露骨に嫌われている割には、柴田は天海のことを嫌っていないみたいで、なんだかそれは純粋に不思議だった。 「俺が中採で入って来た時、アマさん俺の教育係だったんだよ。今のお前の白雪みたいな」 「へー・・・」 「その時さ、俺が心配性でなんでもかんでも何度もチェックするのを見て、アマさんがさ、お前はよく見えているからチェックしたいなら2回で十分だ、それ以上は時間の無駄だからやめろって言ってくれて」 「そんなこと」 「まぁ小さいことなんだけど、あの他人に興味なさそうなアマさんが俺が密かにやってたそういう細かいとこ、ちゃんと見てくれてるなんてすごいなぁと思ったし、嬉しかったよ」 思い出すみたいに柴田が言うのを聞きながら、なんだか矢野も同じようなことを言っていたような気がすると思ったけれど、織部はその時何も言わなかった。その面倒を見てやった後輩に、さっさと抜かれて先に出世されているなんて、ますます天海のメンツに関わることなのではないかと思ったけれど、隣できらきらした目をする柴田はそれに気づいていないようだった。矢野の時も思ったけれど、なんでもかんでも興味がなさそうな風に見えるのに、そうして実際興味なんてないくせに、そうやって的確なことだけ言ってしまうから、妙にありがたがられて、こんな風に神聖化されているのではと思ったけれど、天海は多分そんなきらきらした目で見られている自覚がそもそもないのだろうし、指摘したところで首を傾げられるに決まっていた。 (でもなんとなく、気に入らない。俺以外の誰かのことそんな風に見ないでよ、天海さん) その時ふっと車が止まって、がちゃりと柴田が隣でシートベルトを外した。いつの間にか会場まで着いていたらしい。織部もシートベルトを外して、外に出る。柴田が無言で振り返った後、ぽいとこちらに向かって何かを投げてきて、それを両手でキャッチするとフーガの鍵だった。 「えー、やっぱ帰り、俺運転すか」 「そのための運転手だろ。酒飲むなよ」 「柴さん飲まなきゃいいじゃん」 「俺は飲む!久々にシャンパン飲むぞー」 にこにこ笑って柴田はそう言うと、暗い駐車場の中で大きく伸びをした。真中がレセプションに行くのを、ある種の息抜きだと思っているみたいに、柴田もいつも仕事に忙殺されているひとであったから、こんな明るい時間から外で羽を伸ばすことなんてできないので、余計にその足取りを軽くしているのだろう。そうして目の前のシャンパンにわくわくしている柴田の背中を見ていると、なんだか佐竹や徳井が言っていることが、織部にも少しだけ分かるような気がした。天海はきっとシャンパンなんかにワクワクしたり、にこにこしたりしないだろう。考えながら織部ははしゃいで少し早足になる柴田の後を追いかけた。 「ぎもちわるい・・・」 「・・・だっさ・・・」 後部座席にうつ伏せに転がったまま、柴田は小さい声でそう漏らした。それに織部は溜め息を吐くしかなかった。そういえば白雪が来る前に心配してくれていたけれど、こんなに飲めない人だとは思っていなかった。柴田とは事務所の忘年会で一緒になるくらいでしかなかったけれど、飲める印象もなかったけれどこんなに飲めない印象もなかった。シャンパンをただ単に飲み慣れていないだけなのかもしれないが、柴田は二杯くらいで気持ち悪いと言い出して、青い顔をして震えて、挨拶どころではなかった。仕方なく自分が挨拶をして回っている間、ロビーのカフェで休ませるしかなかった。レセプションがお開きになるまで戻ってこないことについては変だなと思ったが、織部が会場を抜けて迎えに行くまで柴田はまだカフェの椅子にひとりで座っていて、酔いも覚めるどころか、一層回っていているような気さえした。取りあえず、青ざめた顔をして気持ち悪いと言う柴田を宥めながら、なんとか駐車場まで連れてきたけれど、このまま家に帰っている間に吐いてしまうのではと思うくらい、柴田の顔色はよくなかった。もっとも違う理由でいつも悪いのだが。 「柴さん、帰りますけど、大丈夫すか。吐かないでくださいね、吐いてもアンタの車だけど」 「無理・・・気持ち悪い・・・」 「柴さん家ってどこすか」 柴田の抗議を無視して聞くと、柴田は丸まったまま動かなくなって、答えなくなってしまった。変だなと思ってうつ伏せの柴田を無理やり反転させようとすると、その目が閉じられているのが見えた。さっきまで気持ち悪いと散々零していたくせに、この段になって寝るか?と思ったが、仕方がなかった。揺さぶったら起こせるかもと思ったけれど、その前にリバースされたら嫌だしと、織部は下ろしたばかりのダブルのスーツの心配しかしていなかった。そもそもこのスーツは今日の朝の段階で、天海とそういうプレイの後にクリーニング行になる予定になっているのだ、もっとも織部の中だけの話だが。 「鬼上司が形無しなんだけど、柴さん」 言いながら肩を竦めて、織部は後部座席のドアを閉めた。

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