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眠れる森の君のため Ⅳ
すっかり熟睡モードに入ってしまった柴田の家は分からなかったので、仕方なく自分の家に連れて帰った。そのせいで吐かれずに済んでいるのだが、どちらが厄介なことなのか、織部には判別のしようがない。柴田は痩せてがりがりだったので、抱え上げれば運べないほどではなかった。まだ天海も抱き上げたことがないのに、何故別の上司を抱き上げているのかと思って悲しくなったが、そんなことを考えていても無駄なことはよく分かっていた。そもそも天海は大人しく抱き上げられたりしないだろう。女扱いするなと言われて、殴られておしまいな気がする。電気のついていない部屋を横切って、とりあえずベッドの上に柴田を下ろす。ベッドはシングルサイズだったから、流石に柴田が痩せ型といえど、そこにそう下ろしてしまったら、自分の寝るスペースは確保できそうになかった。仕方がないからソファーに寝るしかないのかと、疲れた頭で思う。
「うー・・・」
寝苦しいのか、熟睡しているはずの柴田が呻くように言って、ベッドの上で寝返りを打つ。面倒臭いと思いながら、織部はいつも柴田がしていないネクタイを解いて、ベルトも外しておいてやった。このまま放置していたら、スーツはしわくちゃになるだろうけれど、流石に着替えさせるのはちょっとやりすぎな気がすると思いながら、ジャケットだけを脱がしてハンガーにかけておく。
(ほんっと、がりがりだな、柴さん。飯食ってないのかよ)
ボタンを二三個外すだけで、その浮いた鎖骨がよく分かった。同期の佐竹や徳井は柴田のことが好きみたいで、よくフェロモンの話をしているが、織部にはよく分からなかった。ふたりがその話をするたびに、俺はゲイじゃないから分からないと言っていたが、もっともふたりともゲイではないのだが、まさかその後こんな風に天海と恋人関係になるとは思っていなかった。電気もついていない暗がりの中、織部はその時の事を思い出しながら、眠る柴田のことをじっと見つめた。柴田は目を閉じて、無防備にそこで眠っている。織部は手を伸ばして、ボタンをもうひとつふたつと全部開けてみた。
(やっぱり全然分からん。俺やっぱゲイじゃないんだな。柴さんじゃ勃たねぇもん)
やっぱり自分の欲望も欲情も、天海相手だから成り立っているのだと、そういう結論に結局いつもなる。何の用事もないことは分かっていたが、メールでも電話でもきてないかなと思って、携帯を見てみると、佐竹からは「柴さんとレセプションなんて羨ましい死ね!」と悪態が届いていたが、それ以外は静かなものだった。天海からは勿論連絡なんてなかった。
(あ、そうだ。これ、タケに教えてやろ。きっとアイツもっと羨ましがるわ)
携帯のカメラ機能を起動させて、それを眠る柴田に向ける。すると柴田がそれを察知したみたいに、かくんと首だけを動かして、カメラの画角から顔を背ける。起きているんじゃないだろうなと思って、側まで寄って顔を覗き込んでみると、柴田は目を閉じてやっぱり完全に熟睡している。柴田の顔がちゃんと映るように角度を考えて、画面を触ると、カシャっと音がして画像は簡単に保存された。これを佐竹に自慢するのはいいけれど、バレたら手酷く怒られるのではないかと思って一度、織部は躊躇したけれど、まぁこんなに酔っぱらってしまっているのは柴田の責任でしかないし、ここまで運んで介抱してやっている自分が、責められる理由はないはずだと思って、もう一度シャッターのボタンを押した。
「んー・・・お、もい・・・」
静かだった柴田が急に動いて、吃驚して織部は思わず携帯電話を隠して、ベッドから離れた。ベッドの上で目を閉じたまま、寝ぼけたみたいに柴田は何かを払いのける仕草をする。もしかしてうなされているのかと、もう一度近くによってみると、柴田の眉間にはしわが寄っていた。
「し、ずか、・・・おもい・・・んー・・・」
(しずかって彼女か?)
確かに柴田はがりがりだけれど、彼女相手に重いとか言ったら流石に怒られるぞと思いながら、また静かになった柴田相手に、懲りずに携帯電話を向ける。それにしても柴田に彼女がいるなんて話、聞いたことがなかった。佐竹も色々聞き出そうと努力しているようだが、織部が聞きかじっているうちでは、そんなことお前に関係ないだろの一言であしらわれているようだった。織部の班のリーダー夏目は柴田と同期らしく、それなりに仲が良いようだったが、プライベートで飲みに行くような仲でもないようだし、そういえば柴田のことは存外誰も知らないのではと、考えながらしこたま写真を撮ってから、織部はようやく腕を下した。
(俺はちょっとだけ柴さんのことが羨ましい)
(あんな風に天海さんに特別視されてるなんて、なんかちょっとずるい)
(もうちょっと俺のことも見てくれたらいいのに)
考えながら、織部は柴田を脱がせたのはいいものの、自分は全く帰って来てからスーツを脱いでいないことに気付いて、ネクタイを解いてジャケットを脱いだ。そして天海に自慢したベストも脱いで身軽になると、もう一度ベッドに横たわって意識を失ったままの柴田をちらりと見やった。
(悪く思わないでよ、柴さん)
そうして下唇をぺろりと舐める。
翌日、目が覚めると知らない天井が見えた。頭がガンガンすると思いながら、取り敢えず起き上がって部屋の中を見回してみたが、程よく散らかっている広くもないが狭くもないそこに、全く見覚えがなかった。考えながら頭をがりがりかいて、ふと自分がシャツを着たままであることに気付いた。下はスラックスで、ベルトだけ外れている。そう言えば、昨日はレセプションに行く予定があったから、こんな格好をしていて、レセプションに行って、そこまで考えて柴田ははっとした。疲れていたのがいけなかったのか、シャンパンがやけにはやく回って、すぐに気持ち悪くなってしまったのは覚えているが、その後の記憶が全くなかった。
「ここ、どこ?」
思わず口に出ていた。ベッドから降りると側にちゃんと自分の鞄があって、中を開けると財布や携帯もちゃんと入っている。さらに壁にはハンガーにかけられた自分のジャケットが吊るされている。誰かがここに運んで介抱してくれたのは明らかだった。
「・・・織部?」
だとしたらその相手は一緒にレセプションに出向いた織部しかいないはずだった。しかし、部屋の中には織部の姿がない。織部に違いないことは分かっているのに、そうではなかったらどうしようという気味の悪い妄想が、昨日の記憶がはっきりしない柴田の頭の中をかすめる。その時、柴田の背中の向こうでがちりと扉が開く音がした。ぱっと音に反応して反射的に振り返ると、そこには織部がタオルで頭を拭きながら上半裸で立っていて、柴田は腰が抜けるほど安心した。
「おーりーべー」
「あ、柴さん起きたんすか。おはようございます」
「いや、おはよう・・・っていうかごめん・・・」
くしゃくしゃの髪の毛で、くしゃくしゃの服を着て、柴田はそこに見捨てられたみたいに座っていた。いつも背筋を伸ばして所長の真中にすら怒号を飛ばしている、鬼の副所長の威勢はどこへいったのか。そうしてしゅんとしおらしくしている柴田はなんだかちょっとかわいく思えたし、もしかしたらありだったのかもしれない、とほんの一瞬だけ織部は思った。
「いいすよ、別に」
「聞かんでも分かるが、一応聞いとく・・・俺、昨日・・・」
「あー、柴さんが酔っぱらって死んでた後は俺が挨拶回りちゃんとしといたんで、その辺はご心配なく」
「悪い・・・ほんっともう・・・自分が情けない・・・」
この世の終わりみたいな青白い顔をして、痩せた細い指で柴田は俯いたまま顔を覆って短くそう言った。柴田は他人に厳しい人だったが、兎角自分にも厳しい人で、だから仕事を抱え込んでいても、夏目みたいに弱音を吐いたり誰かに甘えたりはしない人だった。そういう生き辛さを多分、人生を半分くらい舐めてかかっている織部は理解できないし、理解しようとも思っていない。その柴田にとってみれば、仕事半ばで酔っぱらって機能しなくなるなんてこと、論外に決まっていた。自分さえ黙っていれば露見しないそれを、きっと馬鹿正直に真中に報告するつもりなのだろうと青い顔をして震える柴田を見ながら、織部は思った。証拠に、ひとつも柴田は織部に口止めをしようとする様子がない。そんなことで真中は柴田を怒ったりはしないし、勿論評価が下がることなんてないのだが、それを差し置いてもそういうところの要領の悪さは多分柴田にもある。
「柴さん、酒弱いんすねぇ」
「あぁ・・・多分そんなに強くないんだけど、でもシャンパン二杯で泥酔するとは・・・」
「疲れてたんですよ、多分」
言いながら織部は、部屋の隅にある冷蔵庫から封が開いてないミネラルウォーターのペットボトルを出して、それを青い顔をして依然俯き続ける柴田に向かって差し出した。おずおずと、部下の自分に一体何を遠慮しているのか不明だったが、おずおずと柴田はそれを受け取って、盛大に深い溜め息を吐きながら、キャップを回す。柴田はそれを少しだけ飲むと、自分を戒めるみたいに今度は小さく溜め息を吐いた。
「あ、シャワー入りますか?」
「・・・お前ほんと良い奴だな。夏目にも評価上げるように言っとくわ・・・」
「わぁ、ボーナス期待してマース!」
柴田は起き抜けのぐちゃぐちゃの髪の毛のまま、勿論眼鏡もないし視界もぼやけていたが、織部がおちゃらけたようにそう言うのに、はははと乾いた笑い声を上げて、そのままふらりと力なく立ち上がった。織部は柴田にバスルームの場所を教えるために、元来た道を戻りはじめ、柴田はそれに大人しくついてくる。洗面所まで入って場所を教えると、シャツを中途半端に羽織った格好の柴田が鏡に映っているのを、たった今気づいたみたいな顔をして、織部は振り返ると柴田を見てからくすっと笑った。
「・・・なに?」
「いや、柴さんの彼女って肉食系なんですか?」
「にくしょく・・・?ってか彼女って」
「だってホラ」
言いながら織部に肩を掴まれて、洗面所の鏡に向き合うように体の向きを強引に変えられる。そこには自分のひどい顔が映っているが、織部が何を言いたいのか不明だった。柴田が頭の上にはてなマークを浮かべていると、織部はまたあははと笑って、その顔を近づけてきた。
「キスマークだらけじゃないすか」
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