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眠れる森の君のため Ⅴ

「オイ、しずかぁ!」 扉を開ける音がして、開口一番柴田がそんな風に怒鳴ったので、一体何ごとなのかとさっきまで眠っていた逢坂は、目を擦りながらベッドから這い出した。セフレのころからそうだったので、大体会うのは柴田の部屋が多かったけれど、時々は柴田も逢坂の部屋に来ることがあって、何かある時に持っていたほうが良いからと、合鍵を渡していたものの、今まで使われるような場面はなかったが、その時ばかりは柴田はそれを使ってやってきたようだった。土曜の午前中からそんな大声で怒鳴り込んできて、元気だなと思ったけれど、玄関で顔を真っ赤にして怒っているらしい柴田は、本当に何か逢坂に思うところがあるらしい。怒られるようなことをした覚えはないけれど、と耳を塞ぎながら思って、取り敢えず部屋の奥に避難する。 「なに怒ってるのー?朝から元気だね、侑史くん」 「お・ま・え・は!」 「っていうか、なんでスーツ着てるの?しわくちゃだけど、仕事してたの?今まで?」 「・・・―――」 ソファーに寝転がった逢坂は、柴田が怒って馬乗りになってくるのを、どこか楽しそうに見ていた。逢坂は柴田が着ているスーツのしわくちゃのシャツを引っ張って出して、その下から手を入れた。冷たい手に急にわき腹を撫でられて、びくりと柴田の皮膚の表面が脈打つのが分かった。こんな時間から柴田は自分にそういう行為を絶対に許さないし、嫌がって殴られるに決まっていたが、その時何故か柴田は逢坂を手伝うみたいに、締めていたネクタイを乱暴に引っ張って緩めると、そのシャツのボタンを上から開けはじめた。逢坂は吃驚しながら、柴田の首から緩められたネクタイを引っ張って取る。 「えー、のりのりじゃん。どうしたの?変なアドレナリン出てるよ」 「・・・―――」 柴田は逢坂のそれには答えずに黙ったまま、シャツのボタンを全部外して、そしてそれを躊躇する素振りなく、まるで着替える時みたいにばさっと景気よく脱いだ。柴田は偏食のせいでがりがりだったが、それを自覚しておきながら、そういう自分の体がコンプレックスらしくて、明るいところで脱いだりするのが、本当はあまり好きではなかった。こんな時は特に。何度もセックスをしている割には、未だに服を脱がされることに抵抗があるのか、やけに恥ずかしがったりするのも、多分そのせいなのだろうと逢坂はひとりで考えている。逢坂は部屋に上がって来た時から柴田の様子が変だとは思っていたし、そもそも約束していない休日に急にやって来ることなんて今までなかったから、思い返せばそれも変だったのだけれど、兎に角その時シャツを脱いだ柴田がいつもの柴田ではないことは、何となく直感で分かっていた。 「お前、これ!アホみたいにつけやがって!」 「・・・―――」 耳まで真っ赤になった柴田の痩せた上半身に、赤いキスマークが無数につけられていた。今度それに黙るのは逢坂のほうだった。 「俺が!どんなに恥かいたか!いい加減に・・・―――」 「侑史くん、ちがう」 「はぁ?違うわけねーだろ!お前しかいねーよ!」 「俺つけてない、それ」 ぴたりと柴田の口が止まって、それきり動かなくなる。逢坂はその時、なんだか柴田がどこかに逃げてしまうのではないかと思って、瞬時に自分に馬乗りになったままの柴田の両手を掴んだ。逢坂に掴まれてからはっとするように柴田は我に返って、体を捻ったけれど柴田は非力で、そんなものは逢坂の力の前では無力でしかなかった。ぎゅっと握った柴田の両手首に力を込めると、柴田の肩がひくりと震えた。その目がふわふわと所要なさそうに動いて、逢坂を捉えてはまた反れてを繰り返している。逢坂はそれを下から見上げながら、柴田が今何を考えて何を言おうとしているのか、辛抱強く待った。 「・・・うそ」 「嘘じゃない。それ、誰につけられたの」 「・・・だ、って、お前しかいない、は、離せ・・・よ」 「誰につけられたの」 低い声で逢坂がそう唸るように言うと、途端に柴田は今までの勢いが嘘みたいに、青い顔をして微弱に震えはじめた。その声色と表情で、彼が冗談を言っているわけではないことは分かる。織部の部屋で鏡を見せられた時、そんなことをする相手は柴田にとっては逢坂しかいなかったから、恥ずかしさで頭に血が上りながらも、またふざけて逢坂がつけたのだろうと思った。それ以外の選択肢が、どう考えても柴田にはなかった。それ以外考えられなかったから、逢坂だと確信していた。まさかそれが逢坂本人によって打ち砕かれるなんて思っていなかった。彼女は肉食なのかとしつこく聞いてくる織部を笑って交わして、とりあえずシャワーだけ借りるとしわくちゃのスーツをそのまま着て、家に帰らずにここに直行した。逢坂がふざけて付けたのは分かっていたけれど、織部に酔っぱらって醜態を晒した挙句、こんな風にデリケートな部分まで見られて、柴田は羞恥心でどうにかなりそうだった。それを逢坂に今更言ってもどうしようもないことも分かっていたけれど、せめて顔を見て文句のひとつも言ってやりたかった。だから逢坂がこんな反応をするなんて、まるで柴田は考えていなかった。 「ま、まさか・・・織部が・・・?」 「織部って誰?」 「いや、あいつ、そうなのか?いや、そんなわけ・・・起きた時もフツーにしてたし・・・っていうか彼女ってあいつが言ってたのに・・・?」 「ちょっと侑史くん、織部って誰だよ、男?浮気だろ、こんなの」 「う、浮気なんかじゃ・・・俺、まさか、酔って織部とやったのか・・・?いやまさか・・・」 「あー、また酒だよ。だから外で酒飲むなって言ってんのに、馬鹿」 吐き捨てるように逢坂がそう言って、あれだけ強固に掴んでいたのに、あっさりと柴田の手を放すとソファーから降りて立ち上がった。慌てて柴田も立ち上がろうとして、上手く立てなくてソファーの上でよろける。下から逢坂を見上げると、逢坂はやけに冷たい目をして柴田のことを見下ろしていた。背中がぞくっとする。逢坂はいつもにこにこ笑っていて、柴田にはとにかく優しいひとであったが、時々そういう冷たい目をすることがあって、その度に柴田は心臓をぎゅっと掴まれているみたいな、変な気分がする。柴田は思わずさっきまで逢坂に掴まれていた手で、逢坂のことを捕まえようと手を伸ばしたけれど、逢坂はそれが分かったみたいにソファーに乗ったままの柴田から、ひらりと体を捻って距離を取った。 「よくそんな体で俺んとこ来れたね、ちょっともう帰って」 「いや、ちょっと待てしず。俺は・・・―――」 「どうせ覚えてないんでしょ。侑史くん酔うとすぐそれだし。だから気を付けろって言ってんのに聞かないの、そっちじゃん」 「だってあんなんで酔うと思ってなかっ・・・いやそうじゃなくて、俺浮気なんかしてない!」 「何にも覚えてないくせに?」 「・・・―――」 そう冷たく言い放つと、柴田はそれに言い返すことができなくて、ぶるぶる震えたままじっと俯いて黙ってしまった。柴田はあんまりお酒が強くないわりに、外でお酒を飲むと楽しくなるらしく、つい飲みすぎることが多くて、それでこの間も部下だという人間に運ばれて帰って来たばかりだった。あれから気をつけろと逢坂は口を酸っぱくして言っていたが、こっちにも付き合いがあるとか何とか言って、逢坂には分らぬ社会の仕組みを武器に、聞き入れなかったのは柴田のほうだった。だからそんな今更しおらしくしたって無駄だと思いながら、逢坂も惚れた弱みという奴で、柴田が弱っているのを見ていると許してしまいそうで嫌だった。考えながら溜め息を吐いて、せめて見ないようにしようと、逢坂は柴田に背を向けた。 「ほんともう、今日帰って。俺、侑史くんに今優しくできないし。酷いこと言って傷つけちゃうから」 「・・・い、いやだ。なんで。こっち向けよ。しずか」 「やだよ、兎に角帰って。また落ち着いたら電話するから」 「わ、別れるなんて、言わないよな・・・」 か細い柴田の声がもっとか細くなって、逢坂は気が付いたら振り返ってしまっていた。柴田は俯いたまま開けっ放しのシャツの裾を握って、逢坂が振り返ったことにも気付いていないみたいだった。その肩が震えている。震えるくらいならそんなこと、しなければよかった。良心が痛むから、そんな風に悲痛そうに眉を顰めないでほしい、思いながら逢坂はもう手を伸ばしてしまっている。肩を掴むとはっとしたように柴田が顔を上げた。その目に少しだけ安心した光を見てしまったら、もう駄目だった。 「言わないよ、好きだもん」 「・・・しずか・・・」 「侑史くんのばか。ほんっともう、さいあく」 「ごめん・・・」

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