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眠れる森の君のため Ⅵ

震える肩をぐいっと抱き寄せると、柴田が必死に自分にしがみついてくるのは、純粋にかわいいと思えた。こんな気持ちと場面じゃなきゃ、きっともっと嬉しかったのにと思いながら、逢坂は柴田の頭をぽんぽんと撫でて、小さく溜め息を吐いた。柴田はぎゅうぎゅうと逢坂を痛いくらい抱き締めて、まだ微弱に震えている。酔っぱらったのは柴田の責任だったけれど、その後のことは柴田だけの責任ではないことくらい分かっている。逢坂だって分かっているつもりだった。 「織部ってだれ?」 「・・・職場の、部下。昨日パーティーに行く仕事があって、それで一緒に行って、お、俺が酔っぱらって、寝ちゃったから、部屋に連れてってくれて・・・」 「・・・あー、それでそのまま・・・」 「俺、だってずっと寝てたし!何にも覚えてな、い。さ、流石に突っ込まれたら起きる、だろ・・・」 「・・・うーん」 柴田の体が、段々男のそれを受け入れられるようになっていることを、逢坂は知っているし、多分柴田も知っているはずだった。涙目で苦しい言い訳をする柴田を見ながら、逢坂は首を傾げて、知らないふりをする。そうだねと言って慰めてやるのは癪だった。抱き締めていた腕を離すと、柴田は逢坂にくっついたまま、また不安そうに逢坂のことを見上げた。その首筋から柴田の家のものでも逢坂の家のものでもない、知らないシャンプーの匂いがしているのが、子どもっぽいかもしれないけれど嫌だった。柴田の短い襟足を触ると、そこは別に濡れているわけではないのに、何となくシャワーから時間が経ってないのが分かる。 「とりあえず侑史くんお風呂入ってくれる?なんかいつもと違う匂いするしヤダ」 「・・・風呂なら織部の家で入って来たけど」 「だからそれが嫌だっつってんじゃん。ばか!ちゃんと体洗ってきて」 「お前意外と潔癖なんだな・・・」 まだ涙目だったけれど、柴田はようやく逢坂から距離を少しだけ取って、逢坂の着ているTシャツの裾を掴んだまま、何がおかしいのか少しだけ口元を綻ばせた。そういえば、今日まだ笑った顔を見てないと思いながらも、逢坂はそれに笑う気にはなれなくて眉を顰める。 「なんで侑史くん他の男とセックスしたかもしんないのにそんな冷静なの、むかつくんだけど」 「だからしてないって言ってるだろ・・・俺だって自分の体のことなんだから分かるよ。してたらそこそこ違和感が残るはずだ!」 「急に開き直るなよ!してなきゃいいっていう問題でもないだろ!さっきまでしおしおしてたくせにー」 「してないのをしてないって言って何が悪いんだよ!お前こそもうちょっと俺のこと信用してくれてもいいだろ!」 「できるわけないだろ!酔っぱらってすぐ寝ちゃう人のことなんてさぁ!」 「・・・うっ・・・」 ちょっと強い口調で制止をすると、柴田は呻いてそれきり何も言えなくなって黙って俯く。柴田には言ったことがないが、逢坂も実は突っ込まれる側の経験があるから、柴田が言いたいことは分からなくもなかった。幾ら慣れているからと言っても、全く違和感が残らないわけにはいかないだろう。それこそ薬でも盛られていない限りと思って、逢坂はその自分の嫌な妄想を瞬時にかき消した。だからと言って、やっぱりそうだねと言って慰めてやるのは癪だったから、逢坂はそれを知らないふりをする。 「もう懲りたら外で酒飲まないでね。約束だかんね!」 「・・・お、おぉ・・・」 「とかって侑史くんすぐ約束破るからなぁー、信用なんないなぁー」 「だ、だから今回のことは、俺だって重く受け止め・・・仕事も中途半端にしちゃったし・・・」 「はーん、俺より仕事の心配ですか。そうだよねぇ、侑史くん仕事が一番大事だもんねぇ」 「ばか、なんでそうなるんだよ。そりゃ仕事も大事だけど、お前のことだって、俺はいつもちゃんと考えてるって、言ってるだろ・・・」 「言ってるけど言ってるだけっていうか・・・それが俺には伝わってないっていうか」 「な、んでそんなこと言うんだよ、お前ずっとそう思ってたのか?」 「別にー。俺だって子どもじゃないから、仕事より優先してとか、そんなん言いたくないし言わないし」 「・・・ほとんど言ってるみたいなもんだろ・・・」 「言ったって侑史くん絶対そんなことできないじゃん、分かってるのに言うの虚しいよ。もうはやく風呂入れってば」 「そう・・・かもしんないけど、言わなきゃわかんねぇだろ、そんなこと。またそうやって物わかりのいい振りすんのやめろよ・・・」 失速しながらも柴田は言いたいことはちゃんと言って、それから懲りずに逢坂に手を伸ばしてくる。いつもくっつくと怒るのに、こういう時だけ甘えてくるなんてずるいと思いながら、すり寄ってくる柴田のことを、なんとなく邪険にはし切れないで、逢坂にできたのはその時、柴田の体を抱き締めないようにすることくらいだった。柴田のほうはいつも抱き締めたら抱き締め返してくれるのが普通だと、頭以上に体で学習しているみたいで、逢坂が一向に触れてこないのがじれったいみたいに、いつもはそんなことしないくせに、首筋に動物みたいに顔を擦りつけてくる。その度に違う匂いがするのが嫌だって言っているのにと思いながら、逢坂はその肩を掴むとぐいと押しやり、柴田を自分の体から引き離した。 「だから風呂入れってば。嫌なんだって、侑史くんの体から知らない匂いがするの」 「・・・うん、ごめん」 「出てきたらセックスするからね、侑史くんがやだって言ってもするから!」 「・・・いいよ。やだなんて言わない」 逢坂のTシャツの裾を握ったまま、柴田は少しだけ目を伏せてそう言った。やっぱり抱き締めてやれば良かったのかなとそれを見ながら逢坂のほうが何故か弱気になる。きっと強がったって柴田も記憶がないから確かなことが分からなくて、怖いのだろうということくらいは分かっていた。本当はその頭を撫でて大丈夫だよと慰めることができたらいいのだろうけれど、逢坂はどう頑張ってみても、そこまで大人にはなり切れない。名前しか知らないその男のことに対して死ぬほど腹が立っているし、正論を振りかざしてそれでなんとか自分を鎧おうとする柴田にも、おんなじくらい腹が立っている。 「優しくしないよ、今日」 「・・・別にいいよ、お前の好きにすれば。付き合うよ」 逡巡する柴田の手がふっと逢坂のTシャツを離して、そのままバスルームのほうに歩いていく。それを見ながら少しだけほっとしたなんて、柴田相手に言えるわけがなかった。 「・・・なぁしずか」 「なに?」 バスルームに入る前に、柴田はそこで振り返って、逢坂のことを呼んだ。見捨てられたみたいな不安定な目をして、逢坂の良心を簡単に突き刺す癖に、その自覚がまるでないのが卑怯だといつも思う。いつも背筋を伸ばしてしっかりしている風を装っているけれど、本当は柴田がそんなに強くない人間だということは、多分逢坂のほうがよく知っていた。柴田は心配性でナイーブで傷つきやすいくせに、それを周りの人間に弱みとして見せるのが苦手で、いつも強いふりをして立っている。そんなことばかりしているから、しんどい時に誰にも助けてもらえないことも、多分分かっているはずなのに。 「俺さ、絶対そんなことないと思うんだけど、もし織部と酔ってヤったんだとしてもさ。それとお前とするのと、多分全然、意味が違うよ、分かるだろ?」 「俺はお前としかそういうことしたいと思ってないから。ほんとにごめん。お前の言うとおりだよ」 そうやってまた簡単に涙目になる。ずっと柴田は強いふりばっかりをし続けて、誰かに弱みを見せられなくて、上手く泣けなくこともできなかった。けれど逢坂の前では、柴田はしっかりしているふりをしなくてもいいから、どうしようもない自分のことを逢坂はよく分かってくれているから、それでも好きだと言ってくれているから、多分それに甘えているのだろうなぁと柴田は逢坂の反応が怖くて、それを見ることができないから俯いたまま思う。こういう時に、簡単に涙腺が刺激されるのも、卑怯だと思うしずるいと思うけれど、逢坂相手にしかこうはならないのだから、体は柴田が頭で思うよりもずっとずっと正直なのだ。ずっと鼻をすすると背中にどんと衝撃が走って、振り返ると逢坂が後ろからぎゅっと抱きしめてくる。 「・・・しずか」 「ずるい、侑史くん、ほんとに」 「・・・うん、ごめんな」 柴田は前を向いたまま、逢坂の頭をくしゃくしゃと撫でた。キスがしたいと思ったけれど、この状態では無理そうだ。そういえば、織部とはキスとかしたのだろうかと、ぼんやり柴田は思い出そうとするけれど、酔っぱらった自分を見て、何やら面倒臭そうな顔をしている織部の顔しか思い出せなくて、それなのに何故あんなことになったのか、柴田は全然分からない。 「俺も風呂入る」 「なんで、お前今起きたとこだろ」 「うん、でも、優しくしたいから一緒に風呂はいろ」 耳元でそう囁かれたら、柴田はそれに首を振ることなんてできなかった。

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