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眠れる森の君のため Ⅶ

週明けの月曜日、織部は自分のデスクで相変わらず眠たい内勤をしながら午前中を過ごしていた。隣の席の白雪は、またどこかの班のヘルプに忙しいらしく、最近は話らしい話をしていない。教育係という肩書こそあるものの、織部はもうずっとそうして白雪に放置されているのだが、夏目はそのことについては全く怒る素振りがないので、それは完全な贔屓なのではないかと思いながら、まだ提言したことはない。同期といえども、班によっても個人の力量によっても、現在の立場はバラバラで、教育係がついていながらもうほとんど独立しているみたいな働き方を織部がしているかと思えば、天海の班にいる須賀原は最近異動したこともあるのだろうが、矢野がきっちり面倒を見ているみたいだし、かと思えば、堂嶋班にいる徳井はさらに若手の鹿野目の面倒を見ていたりする。織部は自分を誰かと比べてどうかとかあんまり考えることはしないけれど、全体的に見たら真ん中くらいの力量だと思われているのだろうなぁと、近場の白雪が忙しくしているのを見ながら思う。 「織部、ちょっと来い」 「・・・へ」 また夏目かと思って顔を上げたら、そこに柴田が怖い顔をして立っていて、口から曖昧な返事が漏れる。柴田は織部の返事を聞く前にさっと半身になって、今日はリーダー席に座っている夏目に向き直った。夏目は何故か席で嬉しそうな顔をしている。そこで織部はふと、夏目が自分を教育するために柴田と一緒の仕事を入れたと言っていたのを、思い出していた。 「夏目、織部を借りるぞ」 「どうぞ、柴ちゃん。よかったらそのまま持ってって!」 「いらねー、すぐ返す」 「・・・ふたりともー、俺に対して失礼じゃないすかぁ」 あははと笑いながら織部が立ち上がると、柴田がまたくるりと体の向きを変えて、正面から睨んでくる。介抱した時は弱っていてしおらしかったのに、やっぱりそうしていると周りの連中がこぞって鬼と呼ぶのも分からんでもないような気がした。 「さっさと来い」 「・・・―――」 そして柴田は織部に向かって吐き捨てるように言うと、さっさと事務所の奥に行ってしまった。織部はそれを見て溜め息を吐いた後、リーダー席に座ったままの夏目のことを見やった。相変わらず夏目はそこでにやにやしながら満足そうにしている。 「笑ってないでさぁ、柴さんめちゃくちゃ怒ってるじゃん、なんとかしてくれよ」 「知らん!さぁしっかり絞られておいで!」 「・・・くっそ。俺、アンタのかわいい班員だろぉ、困ってんだからなんとかしろってリーダー」 「可愛くない!お前なんかちっとも可愛くないわ!早く行きなさい!」 「えー、俺なんもしてないのになぁ・・・」 ぶつぶつ文句を言いながら、仕方なく織部は柴田の背中を追って、事務所の奥の会議室が並んでいる廊下へと足を踏み入れた。廊下の横にホワイトボードが設置してあって、会議で使うときはそこに時間とどの会議室を使うか書き込んで予約を取るシステムになっている。ちらりと見やると今の時間で、会議室を使っているところは多くなさそうだった。柴田がわざわざ人目を凌ぐみたいに、その辺で自分を叱り飛ばさない意味を、なんとなく織部は分かっていたが、知らないふりをしている。考えながら歩いていると、ひとつの会議室の扉が開いて、柴田が顔を覗かせた。織部は足を速めようとして、ふっと足にブレーキをかける。 「何やってんだ、早く来い」 「・・・柴さん、そこ次使う班がいますよ、隣にしません?」 「・・・別にどこでもいい」 そう言って織部が手近な会議室の扉を叩くと、柴田は渋い顔をしたまま、自分がいたほうの会議室の電気を消して、織部が開けた扉を大人しく潜った。例えば、こういう時に、相手の言葉の裏を読めないみたいな素直さが、前も思ったけれどある種の柴田の要領の悪さで、つけ込むことができるとすればそのポイントでしかないことも、織部はもう分かっていた。 「で、なんですか。柴さん。俺、柴さんがレセプションでぼろぼろだったことなんて、誰にも言ってないすよ」 「そんなことはどうでもいい」 「へぇ」 仕事人間の柴田が、仕事を疎かにしたことをどうでもいいなんて言うなんて意外だなと思いながら、織部は立ったままの柴田相手に椅子に座るのもなんか変だしと思って、机にひょいと腰かけた。柴田の表情は曇っていて、いつも悪い顔色を一段とひどく見せている。佐竹なんかはそこが色っぽいと言うのだが、織部にはやっぱりどうしてもその辺のことはよく分からなかった。 「じゃあなんですか」 「しらばっくれるな、お前、なんであんなことしたんだ」 「あんなことってどんな?」 「だから、今更しらばっくれるなよ、もう分かってんだ」 柴田が握った拳でどんと会議室の机を叩いて、織部はふうと溜め息を吐いた。柴田がどんな風にそれを理解しているのか、知りたかったからそれを柴田の口から聞きたかったけれど、柴田はどうやら言う気がないらしい。どうしたものかと考えていると、柴田が苛々したみたいに、もう一度机を拳で叩いた。 「キスマークのことですか」 「・・・そうだよ」 「なんでそんな怒ってるんですか、あんなの遊びじゃないですか」 「あそ・・・!お前がどう考えてるかどうか知らないけどな!悪ふざけにしても度が過ぎてるぞ!いい加減にしろ!」 「しずかちゃんと修羅場っちゃったんですか?」 「え?」 ひくりと柴田の顔が引きつった。口元が勝手に綻ぶ。あの足で彼女にでも会いに行ったのか、それで喧嘩にでもなったのか、だからこんなに柴田は怒っているのだろう。仕事人間の柴田の彼女はどんな女の子なのだろう。ろくに会ったりデートしたり出来なさそうなのに、そういう柴田にもちゃんとした彼女がいるなんて不思議だった。そうやって誰でも誰かのことを好きになって、そのひとのために簡単にこんな風に声を上げて怒ることができることが、織部にはよく分からないから、それは純粋に不思議だと思えた。柴田が怒っているのは多分、そういう彼女のためでもあるのだろうと思ったら、鬼上司もなんだか可愛いような気がした。 「なんで、お前、しずかの名前知って・・・―――」 「柴さんが寝言で呼んでましたよ、しずかしずかーって俺が乗っかったら重いって言ってたし」 「の・・・」 「あ、ちょっと思い出してきました?俺てっきり柴さん意識あったんだと思ったけど、その分じゃ全然覚えてないだな。ざんねーん。怒るのはキスマークのことで、ほんとにいいんですか?」 「・・・―――」 耳まで赤くなる柴田のことを見ながら、織部はちらりと腕時計に視線をやった。すると目を離している隙に、柴田に距離を詰められて、そのままがっと襟首を掴まれる。机の上でぐらついた体を手で支えて、織部は倒れないように踏ん張る。柴田の顔は青かったが、耳だけは赤くて、織部はそれを見ながら、口元だけをきゅっと引き上げて笑みの形を作った。 「なんすか、柴さん。ここ会議室ですよ、俺を押し倒そうとしないでください」 「テメェふざけたことばっかり言いやがって・・・!俺はお前と、ヤってなんかない!」 「へぇ、なんも覚えてないのに、そんなこと言い切れないだろ。柴さん気持ちよさそうでしたよ、鬼上司も形無しだな」 「・・・―――」 「お望みならもっかいやってあげましょうか。そしたら柴さんも思い出してくれるかも・・・」 襟首を掴んだ柴田の痩せた細い手首を、今度は織部のほうが掴むと、柴田は急に慌てたみたいにその体を引いた。すると織部の背中越しにがちりと音がして、会議室の扉が開いた。柴田の怯えたような、それでいてまだ織部を叱責するのを諦めていない目が、ふわっと反射的に動いて扉のほうを見る。織部は振り向かなかったけれど、誰かが扉を開けたのか、分かっていた。 「悪い、これからウチが使うんだが、ここ」 「・・・アマさん」 柴田の顔から血の気が引く音が、すぐ側に居る織部には聞こえてきそうだった。ぱっと手を放してやると、それにたった今気づいたみたいにはっとして、不用意に近かった距離を、確かな意図をもって取るように後ずさる。もうそんなことに意味なんてないことは分かっていた。織部はそれから緩慢な動作で机に乗ったまま振り返った。天海は相変わらずの無表情で、その時可哀想なくらい狼狽する柴田のことを見ていたが、織部がその顔をじっと眺めていると、根負けしたみたいに織部のほうにちらりと視線をやった。それににっこり笑うと、天海は少しだけ眉間にしわを寄せるようにした。 「取り込み中なら別の会議室にするけど」 「だ、大丈夫です、もう出ます。あぁ・・・すいません、ちゃんと、あの、予定表見てなくて・・・」 「別に構わない。織部、机の上に乗るな」 「あ、はーい、すいませーん」 言いながら織部はひらりと机から降りて、まだ目を白黒させている柴田の腕を引っ張った。 「柴さん、別の会議室にしましょ」 「もういい、お前仕事に戻れ」 「もういいんすか、もうちょっと俺話がしたいんですが」 「俺は話すことはない!」 「えー、そんなつれないこと言わないでくださいよぉー」 あははと笑うと織部が快活に笑うと、柴田はますます青白い顔をして、逃げるように会議室を出て行った。柴田はちゃんと会議室に入る前に予定表を確認していた。どんな状況でも、そういうことをいちいち怠る人ではなかった。それを操作したのは自分だ。だけど柴田は多分、そのことには気付かないだろう。考えながら織部も柴田の背中を追いかけて、会議室を出ていく。ちらりと振り返ると広い会議室の中で、天海はひとりでそこに取り残されたみたいにぽつんと立っていた。

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