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眠れる森の君のため Ⅷ
仕事は終わらなかったが、切り上げてそろそろ帰ろうかなと思ったのが8時を少し回ったくらいのことで、退勤処理をした後、なんとなく携帯を見やると珍しく天海からメールが入っていた。一体何だろうと思ってそれを開くと、簡潔な文章で「仕事が終わったら部屋に来い」と命令口調で書かれていた。今日も今日とて誰かと飲む予定を突っ込んでいるはずなのに、部屋に呼ばれるなんて珍しいこともあるものだと思って、織部は適当に机の上を片すと、不機嫌そうな夏目にだけは挨拶をして事務所を出た。あの後、柴田は何事もなかったみたいに、また疲れた顔をして、他の管理職と話していた。夏目はというと、織部があまりダメージを受けずに戻ってきたことが癪だったのか、それから一日中機嫌が悪かった。週明けから面倒臭い一日だったけれど、まぁ天海に癒してもらえばいいかと、考えながらいつもとは逆方向の電車に乗る。
「こんばんは、天海さん」
大体この時間はまだ外で飲んでいるくせに、今日は何故かちゃんと部屋の中にいて、天海は多分定時くらいで事務所を今日も出たはずだったから、それから自分が来るまでずっと待っていたのだろうかと思ったけれど、天海の無表情からは、そんな甘い空気は微塵も感じられなかった。キスでもしようかと腕を取って引き寄せようとすると、天海はそれを嫌がるみたいに体を捻った。
「お前、ちょっと中に入れ」
「・・・あー、うん。なんか怒ってんの、天海さん」
流石に拒否ばっかりされているといい加減傷つくと言いかけて、飲み込む。天海はあんまり感情的にはならない人だったから、怒ったり笑ったりほとんどしないけれど、そんな風に感情が動きにくい天海でも、たまにこんな風に露骨に感情を見せてくることがあった。言われるままに靴を脱いで、天海が部屋の奥に進むのに、ついていく。リビングまでやってきて、勝手にソファーに座ると、天海は立ったまま、その織部のことをじっと見ていた。ネクタイを緩めながら、天海の視線を感じてふっと顔を上げる。天海は無表情だったが、その視線は痛いほどで、なんとなくピリピリしている感じが伝わってくる。
「えー、なんか怒ってる?天海さん」
「・・・」
「俺今日怒られてばっかりだったから、ちょっとは慰めてよ。膝の上乗って」
「・・・お前、柴に何したんだ」
笑ったまま腕を引っ張ると、天海はやっぱりガンとしてそこを動かず、ただ静かにそう言った。会議室での一件を天海はちゃんと見ていたし聞いてもいたのだろう。もしかしたらそんなことと自分は関係ないふりをされるかもしれないと思った、相手が天海なら。でも流石にそこは自分のことを露程も好いていなくても、一応気にはなるのだなと思いながら織部は黙って、天海の腕をもう一度引っ張ってみたけれど、やっぱり動かなかった。それは好意ではなくて、独占欲なのかもしれない。けれど天海が自分相手にそんなものを育たせるのも、不自然だと思った。織部は天海が自分のことを好きでいて行為を許しているわけではないことを自覚しているけれど、別にそれに甘えているわけではなくて、天海の感情が何かしらの形で動けばいいといつも画策している。それが未だに功を奏したことはなかったけれど、諦めることはできなかった。
「聞いてた?」
「お前らが何してようが俺には関係ないが、お前が一方的に柴にちょっかいかけてるのならやめろ」
「なんで、ってかその言い方、腹立つんだけど。何してようが関係ないって、俺天海さんの彼氏だろ?浮気すんなって怒るとこでしょ。まぁ浮気してないけど」
もう一度しつこく天海の手を引くと、今度は天海はそれを確かな意図をもって拒絶するように、ぱっと振りほどいてまた簡単にひとりになった。
「織部、勘違いするな。俺にしていいことを、柴にも同じようにしていいわけじゃない」
「勘違いなんてしてないし。天海さんにしたいことと柴さんにしたいことは、俺の中では全然違うんだけど」
「あいつをからかって何が楽しいのか分からないが、もうやめろ。それでなくてもあいつは忙しいんだ、余計なことをして心労増やすな」
そう言うと、天海はくるりと織部に背を向けてそのままキッチンに消えていった。きっと酒でも持ってくるつもりなのだろう。言いたいことの半分も言えなくて、言わせてもらえなくて、少しだけ腹が立った。天海は他人には興味がないふりをしているけれど、自分の班員のことはちゃんと見ているし、そうやって自分より優秀な柴田に対して簡単に劣等感を抱いて卑屈になるくらいのことはする。ややあって天海がキッチンから戻ってきて、テーブルの上に缶ビールを置いた。はじめてここに来た時から、何故か天海はワインを飲む癖に、織部には缶ビールしかくれない。ちらりと見やると天海もソファーに座って、ワイングラスに自分でワインを注いでいる。それ二杯で泥酔してしまった柴田のことを、そうして考えているのだろうかと思った。
「なんだ、天海さんも俺にそうやって小言言うんだ」
「小言じゃない」
「褒めてくれるかと思ったのに」
「なんで」
天海は目を伏せたまま、色のない声でそう言った。別に織部の話に興味があるわけではなくて、ただ単に会話の流れとして尋ねただけで、そこに天海の意思はない。天海と話をしていると、度々今思ってもないことを言っているなと感じることがあった。織部はそれを見つけるたびに腹立たしく思うし、なんとか何か感じてくれないものかと思ったりもするが、天海は冷たくただ凪いでいるだけだった。
「だって天海さん柴さんのこと嫌いじゃん」
「・・・」
「会議室で顔見ただろ。俺が天海さんにちゃんと見つかるようにあの会議室にしたんだよ。そこんとこ分かってる?柴さんのテンパった顔面白かったっしょ?」
「・・・そんなことのためにお前、柴にちょっかいかけたのか」
「そんなことってなんだよ、俺は天海さんが柴さんのこと嫌いだから、ちょっと意地悪しただけだよ。天海さんのために。なのにそんな風に言われるなんて、心外だなー」
「・・・」
「褒めてよ、天海さん」
黙る天海の腕を引っ張って、今度こそキスをしようとした。唇が触れそうになる一瞬、天海は我に返ったみたいにぐいっと織部の肩を押しやって、ふたりの間には距離ができる。天海は痩せているけれど、その割に力は強かった。会議室で手を掴んだ柴田なんかよりはずっと、そういう部分では多分普通の男なのだろうと、別段女だと思っているわけではないが織部は改めて思う。けれどそれも織部が本気を出せば多分組み敷くことは容易かったけれど、織部は天海相手に力でもって組み敷いたことは未だにない。なんとなく二度目にここに押し入った時に、天海が過呼吸を起こしたことを、未だに頭の隅で覚えているのだろうと思う。だから天海がそうやって織部を拒否するときはいつも、織部はそれに従って天海から距離を取るようにしている。
「馬鹿だな、お前」
言うなり天海は急にソファーから立ち上がって、そして織部のネクタイを掴むと、ぐいとそれを引っ張った。きゅっと喉で締まって一瞬息が止まる。
「いいか、お前にも俺にも、あいつを非難する権利なんてない。あいつがどれだけ努力して今の地位を確立したと思ってる」
「・・・あまみさん」
「中途半端にしか仕事もできない癖に、一丁前な口をきくな」
「・・・―――」
珍しく天海はちゃんと怒っている口調でそう言うと、織部のネクタイをぱっと離して、また同じところにすとんと座った。そして苛々したみたいにワインを飲むと、テーブルに置いてあったピースの箱から一本取り出して、それを銜えて火をつけた。天海はクールに見えるが、実は小さいことで苛々しがちで、それを抑えるために浴びるように酒を飲んだり、煙草を吸ったりしているらしい。これは本気で怒っている証拠だと、ネクタイのせいで締まった首を撫でながら、織部はひっそりと考えた。
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