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眠れる森の君のため Ⅹ
「柴さん、昨日はすいませんでした」
駐車場のエレベーター前で、どうやら柴田の出勤を待っていたらしい織部は、柴田を見つけると走って寄ってきて、柴田が何かを言う前に、そう言ってぺこりと頭を下げた。柴田はまだ車のキーを持ったまま、しばらく頭を下げた織部のことをじっと見つめていた。柴田が何も言わないので、そろそろと織部が顔を上げると、柴田はそこで相変わらずじっと押し黙っていた。表情は明るいわけではなかったが、別に昨日のように怒っているわけでもなく、一日経って、柴田の中でもその感情は落ち着いているようだった。それにとりあえずはほっとする。また烈火のごとく怒られるのではないかと織部は内心これでも心配していたが、天海は「柴がそんなことするわけないだろ」とまたよく知った風な口をきいていて、嫌っているくせにそんなことを簡単に天海に言わせるそのふたり関係については、織部は朝から腹が立っていた。
「昨日は?」
「あー、昨日も含めて色々。ちょっと俺もやりすぎました。ほら、柴さんってびしっとしててかっこいいから、なんか弱み?みたいなの握れてちょっと嬉しくて調子乗ったっていうか、まぁそんな感じです」
思ってもないことを言われている気がすると思いながら、織部の顔を見ても、織部はいつも通りの表情に少しだけ申し訳ないみたいな感情がわざと見えるような、そういうわざとらしい顔をしていて、なんだかそのまま許してやるのは癪なような気がした。
「・・・まぁ、元は泥酔した俺が悪いからな、お前介抱してくれたし」
「あー、そうすよねぇ」
「は?」
「いや、すいません」
にこにこ笑ってまた頭を下げると、今日も朝から顔色の悪い柴田は小さく溜め息を吐いて、車から離れてすたすたとエレベーターのほうに向かって歩き出した。それについていくと、柴田はエレベーターのボタンを押してから、くるりと織部を振り返った。
「弱みを握れたんならもうちょっとそれを有効活用しようとか思わないのか、昨日の今日で簡単に謝ったりして」
「あー・・・まぁ、今俺別何も困ってないので。あ、夏目さんが煩いのはヤだけど」
「あ、そ。今回だけだからな、もう二度とあんなことするなよ。夏目は我慢しろ、お前が悪い」
「はーい。分かってますよ。あ、あと、俺柴さんとはセックスしてないので、ほんとにキスマークつけただけですよ」
「そんなこと分かってんだよ。誰がお前となんかするか」
はぁと盛大に溜め息を吐いて、柴田は凝っているらしい肩を小さく回した。天海さんはしてくれるんだけどなと思いながら、織部はそれを口には出さない。それにしても柴田は昨日あんなに怒っていたはずなのに、一日寝たら意外とおさまっているものなのだなと思って、柴田も短気で頭に血が上りやすいタイプなのかもしれないと、その痩せた背中を見ながら考える。天海みたいに内に抱えない分、部下を怒鳴るという正しい方法なのかどうかよく分からないが、それで発散できているようなので、天海みたいに夜な夜な男を漁りに行ったりしないで済むのだろう。本当なら皆そうだ、天海が変なだけなのだ、結論は分かっている。
「天海さんが心配してくれて」
「え、は?」
「ホラ、会議室に来たじゃないですか。あの時、変だなって思ったらしくて。話したら謝っとけって言われたので」
「・・・アマさんに・・・話した・・・のか?」
さっきまでなんでもない顔をしていた柴田は、また昨日みたいに元々悪い顔色をさらにひどくして狼狽した様子で、織部のことを見上げた。天海もそうだけれど、天海に異常に反応する柴田のこともやっぱりあんまり好きになれそうにないと思いながら、織部はそれに気付いていないふりをした。孤立する天海のことは可哀想だと思うけれど、天海のことを好きなのは自分ひとりで十分だし、天海が気にかけるのも自分ひとり以外は要らないと思っている。柴田も邪魔だなと思うけれど、排斥しようとしたら天海に怒られてどうしようもないので、仕方なく謝っているだけなのに、柴田にそれを説明することもできない。
「はぁ、まぁ。聞かれたんで」
「お前・・・!アマさんに余計なこと言うなって言ったばっか・・・!」
「俺も話さなきゃよかったって思ってます。怒られたもん」
「な、なにをどこまで話したんだ!キスマークのこととか、やったとかやってないとか、そういう話はしてないだろうな!俺が変に思われるだろ!お前はどうでもいいけど!」
「ひどいっすね、俺はどうでもいいんすか」
全部話してしまったけれど、織部は狼狽する柴田が少し可哀想だったので、それについては答えないことにした。柴田の見当違いの見解については、天海は多分柴田のことは変には思わない、自分のほうがもっと変だからと織部は思ったけれど、天海のためにそれも黙っていた。
「知らねぇよ!お前が何でそんなにアマさんに気に入られてるのか、本当に意味が分からない!」
「気に入られてはないと思うんですけどー。まぁまぁじゃないですか。柴さんのほうがよっぽど」
「俺は嫌われてる・・・言い方とか冷たいし、いつも」
「そうでもないと思うんですけどねぇ」
それは嫉妬で気が狂っているからだと、言いかけてやめる。天海は柴田のことは努力する人間だと言っていた。自分は努力していない自覚があるのか、そんなことは誰も言っていないのに、きっと自分で自分のことをそんな風に追い詰めているのだろう。もしかして真中にそういうことを言われたことでもあるのかと思ったが、織部の知っている真中は優しい人で、天海に対してそんな胸を抉るようなことを言うとはとても思えなかった。そもそも天海と真中も付き合いが長いので、その長い付き合いの中で色々あったに違いないことは分かっているのだが。その辺のことはもう、織部には推測することしかできない。
「ほんとにもう、頼むからアマさんに変なこと言って、俺の評価を下げるようなことしないでくれよ・・・」
「はぁ」
「これ以上下がったら俺はもう挨拶すらしてもらえない気がする・・・」
「そんなことないでしょ、ビビりすぎなんすよ、柴さんは」
「お前は堂々としすぎだ!ちょっとは俺とかアマさんとか!夏目にも敬意を払え!」
「俺、敬語苦手なんですよねー」
そう言って織部はへらへらと笑った。夏目にはいつも敬語をあんまり使わないらしいが、この調子で天海にも話をしているのだと思うと、織部の神経の図太さにゾッとする。そんなこと柴田は、逆立ちしたって出来そうもないことは分かっていた。
「それだけじゃない!お前はもっと根本的に!その浮ついた態度なんとかしろ!」
「えー、これが俺のチャームポイントなのに」
「全然可愛くないわ、そんなもん。ドブにでも捨てろ!」
しっかり指をさして柴田にそう言われながら、ドブはひどいと織部は思ったけど、いちいち指摘するのももう面倒臭かったので、それには適当に返事をしておいた。柴田の背中でエレベーターが音を立てて止まって、柴田がそれに気づいてそれに乗り込むのに後についていく。とりあえず天海に言われた通りにちゃんと謝ったから、天海が今日内勤か出張なのか、スケジュールは全く把握していなかったが、それは後でメールでもしておこうと思った。もしかしたらちゃんと謝ったことを、あの人は褒めてくれるかもしれないから。
「そういやしずかちゃん、ちゃんと誤解は解けたんですか?」
「・・・お前にそんなこと関係ないだろ」
「どんな子なんですか、かわいいんすか?デブなんですか?」
「なんでそうなるんだ・・・」
「だって柴さん重い重いって言ってたからさぁ、騎乗位の夢でも見てんのかと思って」
「・・・お前のそういうところ、ほんと嫌いだわ・・・」
柴田は青白い顔をして心底嫌そうに呟いたが、隣でにやにやしている織部にはあんまり伝わっている風ではなかった。それを訂正するのも否定するのもなんだかもう面倒臭くて、ただ大きな溜め息を吐くしかなかった。それにしても逢坂が女の子みたいな名前をしていて良かったと、その時柴田は全く明後日の方向に感謝をしながら、織部の追求から逃れているふりをしていた。
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